憲法九条、立憲主義、そして憲法学

安倍政権の安保法案を巡る議論で「憲法がないがしろにされている」「立憲主義の危機」等の意見がよくみられる。憲法学者の圧倒的大多数も集団的自衛権を違憲と表明しており、安保法案は立憲主義に背くものだと批判されている。確かに、憲法学者の九条解釈に真っ向から対立しており、法案の中身の是非と無関係に憲法の軽視は許しがたい、という考えは一見非常にもっともらしい。
しかし、この素朴な見方が妥当となるためには、立憲主義と憲法九条の関係の妥当性、そして憲法学の九条をめぐる姿勢とその妥当性があることが前提になる。果たして、これらは単純に妥当だと言えるのであろうか。ここではその点をすこし考えてみたい。

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なぜ研究者は小保方さんに厳しいのか

STAP論文の件について、twitter等ではさまざまな意見が流れています。しかし、それらを見ていると、どうも研究者と一般人の間とでずいぶんと考え方の相違が現れることが多いようです。このような違いが生まれてしまう理由には、研究者はほとんどの人が知っている(がゆえにわざわざ語られないことが多い)が、一般人は意外と知らない「常識」がいろいろとあり、そのために考え方が大きくずれてしまっているという面があるように思います。そこで、ここでは一般人が素朴に抱きそうな疑問に答える形で、そうした「常識」を整理しておきたいと思います。

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差別論の構造~人工知能学会誌の表紙問題

 人工知能学会誌の表紙が女性差別だとして批判を浴び、一方でそのような批判は過剰反応だという再批判も起きている。

 人工知能学会の表紙は女性蔑視?

 コメント欄やその後のtwitter等での展開を見ても、ともに感情的に相手を罵るだけの発現が多く、あまり建設的とはいえない状況であった。しかし、ついにやっと堅実な形での表紙への批判記事が現れた。

 人工知能学会関係者の皆様へ 

 これはきちんと議論するに値する問題提起だと思われるので、これに対して若干のコメントをしておこう。

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麻生ナチス発言はどう解釈すべきか

麻生太郎がナチスを肯定する発言を行ったとして問題になっている。これについては発言全文を見た上で、「ナチスは否定的に言及されているだけ」という議論と、「やっぱりナチス擁護だ」という議論とがともにあり、解釈の部分で見解が割れているようである。そこで、麻生発言の解釈として最も妥当なものを以下では考えたい。

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D-Waveの開発したコンピュータは「量子コンピュータ」なのか?

先日「実用的な量子コンピュータの開発に成功した」というニュースが流れた。

しかし、これらの記事は間違ってはいないのですが、かなりミスリーディングな書かれ方をしている。そこで、以下では混乱しそうなポイントに絞って、この「実用的な量子コンピュータ」とは結局のところ何なのか、について説明していく。

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ざらざらした社会に戻れ~『なめらかな社会とその敵』書評(下)

・管理社会と共同体的専制の危険
この点については、他のブログでの指摘もあるのでここでは簡単に済ませよう。
鈴木氏の提唱する社会は明白に管理社会である。少なくともPICSYが機能するためには、人々の経済活動の履歴をかなりの長期間分保存しておかなければならない。こうした問題は現代社会でもすでに「監視カメラの録画保存問題」などで発生している。しかし、これらの問題と決定的に違うのは、監視カメラの映像は、2週間程度の経過の後に消去されることになっているのに対し、PICSYの場合はそれが機能するためには記録は半永久的に保存され続けなければならないという点である。また、PICSYの世界に入らないとそもそも経済活動に参与できず、実質このシステムから離脱できない(筆者は離脱の自由は認めると言っているが、それは現行社会において貨幣を使わない自由を認めるのとあまり変わりないものであろう)。この点は、同じく消費者のデータ管理を行っているAmazon等とも異なる点であり、不満があればAmazonを使わないという選択肢が取れるのとは幾分も異なっている。
「別に経済活動の記録が残っていてもいいじゃないか」というかもしれない。しかし、このように言ってしまうのは、経済活動の匿名性の欠如が自由市場の重要な利点を損なわせているという事実に気付いていないことを露呈させている。例えば自由市場の熱烈な擁護者の一人であるM.フリードマンは、『資本主義と自由』の第一章において、自由市場の利点として「人々の活動を偏見や不当な差別から守ること」を挙げている。具体例として取り上げるのが、アカ狩り時代にブラックリスト入りして表で働けなくなった映画監督たちが、裏でこっそりと映画を作り続け、それを発表出来たという事実である。アカだとして不当に虐げられていた監督の作品であっても、そういう「監督の属性」ではなく純粋に「映画の内容」で判断し、それがよいものであれば何らかの形で市場に出すようにする、それが市場の力であり、人々の自由を守るように働く。もちろん常にこのようにうまくいくわけではないが、このような自由市場の機能もあるのであり、そしてこれが機能するのはその匿名性ゆえだというのは留意されねばならない。別の例としては「バイアティカル証券」を挙げることができる(R・ラジャン、L・ジンカレス『セイヴィング・キャピタリズム』p69~70)。これは資産をあまり持たず、かつ余命の短い人が、自分の数少ない財産として生命保険の受取を証券として取引し、それによって余命を充実したものにするための資金を得るというものである。これも、もし生命保険の主を知っている場合には、その道徳的な引っかかり等も相まって、win-winであるにもかかわらず思うように取引は進まないであろう。この取引を円滑にするのには市場の匿名性が役に立っている。

 

(なお脱線だが、市場の取引がすべて把握可能であるという発想は、先進国の状況しか見ていない論である。世の中には表に挙がって着てさえいない経済活動というものも多く、世界全体でみると、アンダーグラウンドの取引の方が多いという指摘さえある。また、アンダーグラウンドでなくても、片田舎で携帯電話すらきちんと使えるか怪しい地域もまだまだ多数存在するし、そうしたところでの売買を筆者はどう思っているのだろうか。そもそも、電気がないと原理的に物が買えない社会設計とは一体どういうことなのだろうか。)

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ざらざらした社会に戻れ~『なめらかな社会とその敵』書評(上)

鈴木健『なめらかな社会とその敵』が話題のようである。書評も好意的なものが非常に多い。そういうわけで本書を読んでみることにした。

 

本書の内容を端的にまとめると、近代において人工的に構築された「境界」の存在を批判し、それに対してインターネット網と強力なコンピュータを背景にした伝播的システムを対峙させるものである。さまざまな制度が問題に突き当たり、社会に閉塞感が漂う中で、ウェブを全面的に生かした斬新な社会像の提供ということで、本書の筆致の上手さも相まって世間においては本書の評価が高いのであろう。

 

だが、本書において提供される社会像のほとんどに、私は賛成しかねる。本書の抱える問題点として、大きく分けて三つの点を指摘したい。

 

・虚構と社会的実在
・管理社会と共同体的専制の危険
・社会の複雑性に対する認識

 

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朝鮮学校無償化の問題と「教育を受ける権利」の保障

朝鮮学校が高校無償化から外されるという問題が一部で話題のようであり、実際「拉致」だの「反日感情」だのを持ちだしてくるのは全く支持しないし、大臣が一方的に無償化対象に含めるか否かを決められてしまうような制度設計そのものに問題があると思う。しかし、これを「民族・国籍差別」というのはいかがなものだろうか。
そもそも、今回の問題で対象となっているのはあくまでも「学校」であって「人」ではない。国籍が韓国や朝鮮であったとしても、通常の公立高校に行くのならば無償化対象となるし、逆に日本人であっても朝鮮学校に行くとしたら無償化対象には含まれない。なので、ここで問題になっているのは「朝鮮学校という機関が、国が認定し管理している教育機関として認められるか否か」という一点であり、それ以外の部分はあまり関係ない。

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話題の自民党憲法案とその批判について、妥当性を考えてみる

自民党の改憲案がヤバいと随所で話題のようである。改憲案と対照表は自民党のHPにあるので、それを参照しつつ、ネットで見かけたいくつかの批判とその妥当性について考えてみたい。

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「通俗的」行動経済学のケーススタディの問題

最近「行動経済学」がブームである。クイズ形式で「いかに人間が不合理か」を示せるので通俗書でもよく取り上げられるのだが、そういうところで取り上げられるクイズは、冷静に考えてみると説明がおかしかったり、設定が非常識であったりして、そもそもの目的に失敗していることも多い。いくつか例を取り上げてみてみよう(ちなみに、当のカーネマンの実験は純粋にお金をやり取りする実験で行われており、こういう問題点には陥っていない)

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ネット選挙解禁の可能性~90年代選挙制度改革の歴史との比較

最近、ネット選挙解禁に向けた運動が盛んである。ONE VOICE CAMPAIGNという運動が盛んであり、集会はニュースでも取り上げられている(「ネット選挙運動解禁への課題は“国民の無関心”?――与野党議員と津田大介さんら議論」)。
もちろんネット選挙に対しては、その効果は思ったよりも大きくないという指摘も存在する(「インターネットが政治的関心を高めない理由」)。しかし、ここではネット選挙の賛否は一旦脇に置いて、ネット選挙が実際の政治において、実現しうるか、あるいは実現するとしたらどういう状況で実現するか、ということを考察したい。この考察はかなりドライなものではあるが、しかし実際にネット選挙を解禁させようとする運動が、その戦略を考える上で意味のあるものでもあるだろう。

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ロックの社会契約論・所有権論はリバタリアンを支持するのか

リバタリアニズムは所有権や自由を強く尊重する思想だが、その祖あるいは強い擁護者として、ロックの所有権論が持ちだされることは多い。また、リバタリアンに与しないまでも、授業でロックの思想を簡単に習った人は、彼の社会契約論は個人の自由を強く擁護するものだという印象を持っているであろう。
しかし、ロックは本当にはどのような議論を展開したのであろうか。

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小澤の不等式の量子推定理論における意味及び若干の批判的検討

前の記事で不確定性関係の意味及び小澤の不等式の意味の簡単な説明を見た。ここでは、さらにすすんで小澤の不等式の量子推定理論における意味を見ていこう。


③アーサー・グッドマン不等式

前の記事で見たように、不確定性関係(ケナード・ロバートソン不等式)は、位置と速度の分散に関する関係式であった。しかし①の測定精度と測定によるずれの関係もまた物理的には重要なので、ハイゼンベルグのような直観的な方法ではなく、何らかの厳密な記述をしたいと考えるのは自然である。そこで導かれたのが「アーサー・グッドマン不等式」というものである。

この不等式は、「測定精度」と「測定による速度のずれ」という関係の問題の代わりに「位置と速度を一緒に測るときにどうなるか」の問題を扱っている。このように言い変えてしまっても構わないのは、以下のような理由による。
「位置の測定による速度のずれ」を知るには、「位置の測定」の後に「精度の完璧な速度の測定」を行う必要がある。この二つを立て続けに行うことで、「精度」と「ずれ」の二つをともに求めることができる。しかし、結局この2回の測定で「位置」と「速度」の測定がそれぞれ行われており、位置と速度に関する何らかのデータがこの一連の測定で得られるのだから、これは「位置と速度の両方を測るような測定」の一種であることが分かる。なので「位置(の精度)を測った後に速度(のずれ)を測る測定」という、これまで問題にしてきた測定は「位置と速度の両方を測るような測定」のある特殊なケースであり、後者についての一般的な理論が得られれば、自動的にこれまで考えてきた「精度とずれ」の問題も解決される。

さて、前の記事の②で見たように、測定精度が完璧な測定をしてもなお、位置や速度はばらついてしまうというのが量子力学の本質的な性格であった。そして、「位置と速度の両方を測るような測定」によって得られる測定結果は、元のばらつきよりもさらに大きくばらつく。この「両方測るような測定」において、「位置の測定結果のばらつき」と「速度の測定結果のばらつき」とを掛け合わせたものが、ある一定の値よりも小さくできない、というのが「アーサー・グッドマン不等式」の主張である。

ただし、この不等式では実は測定の種類にある条件を課している。それは「精度が完璧な測定の場合の位置/速度の平均値」と「両方測る測定の位置/速度の平均値」とが一致するというものである(これを「不偏測定」という)。要するに、「両方測る測定」では、本来よりも値がばらついてしまう(精度が悪くなる)のはいいけれど、そもそも全体がごっそり横にずれてしまうような、そういうひどいタイプの測定ではいけない、ということである。
この条件があるので、アーサー・グッドマン不等式の議論では測定の誤差を「実際の測定結果のばらつきの度合いー精度が完璧な測定の際のばらつきの度合い」で定義できる。要するに、位置と速度を両方とも測ろうとしたために、大きくなってしまったばらつきの度合いが「誤差」として定義されているのである。

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小澤の不等式の実験は、量子力学や不確定性関係を否定しているのか?

量子力学を知らない人でも「ハイゼンベルグの不確定性原理」という言葉は聞いたことがある人が多いだろう。「小さいものは位置と速度を正確に測れない」「これこそが量子力学の本質」のような理解をしている人も多いに違いない。
そして先日、この「不確定性原理が成り立たないことが示された」という見出しのニュースが流れてきた。

読売新聞「不確定性原理に欠陥…量子物理学の原理崩す成果」
毎日新聞「量子力学:不確定性原理に欠陥 名古屋大教授ら実証」
日経新聞「「不確定性原理」矛盾実証次世代技術を後押し」
東京新聞「量子力学 不確定性原理に誤り 名大など実証」
朝日新聞「物理の根幹、新たな数式 名大教授の予測を実証」

しかし、ただでさえ誤解の多い量子力学の、極めてデリケートな部分についての研究なので、内容的に誤っている記事も多々見られる。そこで、正しくきちんと理解するために、「不確定性原理」の意味、今回の実験や小澤の不等式で何が示されているのか、をきちんと見ていこう。

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ヒュームの「帰納法への懐疑論」を乗り越える

ヒュームの「帰納法への懐疑論」は有名である。これは、帰納的推測の妥当性を問うものである。多くの人は帰納的推測の妥当性を問われて「以前行ったあの帰納的推測は正しかったし、別のとき行ったあの帰納的推測も正しかったし・・・」と挙げていくだろう。しかし、これは「以前行われた帰納的推測が正しかったから、次の帰納的推測も正しいだろう」という、それ自体が帰納的推測を行ってしまっているので論点先取りになってしまい、帰納的推測の妥当性を示すことにはならない。これが懐疑論の要点である。この「帰納的推測の妥当性」というのは、「世界は、似たようなことをすれば似たようなことが起きるようになっている」という「斉一性原理の擁護」とも言える。

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核兵器を脱神秘化する

核をめぐる議論では、一方の極には「一定水準の国は核を持っていた方が世界は安定する」という核武装論、もう一方の極には「核兵器などない方が平和」という核廃絶論があり、その間のバランスをとるようなところに多くの議論は位置している。そして、これらの双方に挑戦するかのように、北朝鮮などのいくつかの国家は、既存の制度を破って核保有をすることをもくろみ、または実行している。
これらの議論の共通の前提にあるのは「核兵器は極めて恐ろしいものだ」という「畏怖の念」である。これがあるために、核兵器は抑止として機能するし、また同時に廃絶されるべきものだとされる。いくつかの独裁的な国家や軍事政権が核保有に熱心なのも、それが脅しのカードとして極めて有効なものだからである。
しかし、一歩引いて考えてみよう。本当に核兵器は恐ろしく思うべき対象なのだろうか。いやもちろん実際に使用された場合に甚大な被害が出るというのは事実であるが、問題は「どういうときに使用されうるのか」ということである。つまり、核兵器が軍事的な戦略としてどういうときに有効に使用しうるか、ということである。

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「想定外」とリスクの考え方

今回の福島第一原発の問題について、津波被害が「想定外」だの、それは十分予想されていただのといった話が起きている。例えば、共産党が2007年の段階で、チリ地震級の津波が起きた場合には冷却機能が失われると指摘していたこと(「福島原発10基の耐震安全性の総点検等を求める申し入れ」) が明らかにされている。だが、こうした議論においては、そもそも「想定されている」「想定外」というのがどのような意味なのかがかなり錯綜している気がするので、ここで整理しておこう。

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チュニジア、エジプト、あるいは民主化の波は来るのか

チュニジアで大統領が追い出され、エジプトでもムバラク大統領への批判が高まっていることもあり、「アラブ・アフリカ圏の抑圧的体制下に民主化の波か」という見方や機運も高まってきているようである。だが、そういう単純な見方ではいくつも見落とされている点があるように思う。

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ネット・メディア・非日常性

ネット社会の今日においては、「ニュースは新聞なんかよりネットの方がはるかに信用できる」等々の発言がなされることも多い。確かにもはやネットのどこにも載っていない情報というのは皆無に等しくなりつつあるし、情報の新しさや量という意味ではネットは既存のメディアをはるかに凌駕しているのは論を俟たない。
だが、そもそも「新聞」と「ネット」という比較自体、異なるカテゴリーのものを比較してしまっている。ネットというのは新聞とは違いメディア(媒体)ではなく、一つの「場」だと捉えた方がいいからだ。「ネットのどこかにその情報が落ちている」というのは「町のどこかには欲しいものが落ちている」というようなものであり、それと情報を限定している新聞とを比較するのはそもそも間違っている。新聞やテレビがメディア(媒体)として機能するのは、そこにおいて情報の取捨選択が行われ厳選されたもののみが伝達されるからであり、あらゆる情報が無差別にアップされていくネットは、その意味で情報の取捨選択前のデータ群の山に向き合わされるようなものである。

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東京都青少年健全育成条例改正をめぐって

東京都青少年健全育成条例改正について、「表現の自由の侵害だ」「基準が曖昧すぎて権力が暴走する」等々の批判が巻き起こっているようだが、論点が非常に曖昧になっている気がする。
まず、この条例改正の起きた発端は「非実在青少年」の問題である。これは、漫画において明らかに少女(18歳未満の登場人物)の性的な描写(特にレイプ等の問題の多いもの)が書かれており、かつそれを18歳未満が容易に読めるような環境にあることは問題ではないか、という提起である。こうした背景を踏まえると、ありうる条例改正反対論の論拠としては

1:そもそもそうした「非実在青少年」の描写自体問題ではない(規制されるべきでない)ので、規制はすべきでない
2:そうした「非実在青少年」の描写は問題ではあるが、今回の条例はそうしたもの以外の不健全ではないものまで規制してしまうので、条例に反対である

の二者があると思われる。
一方、ネット等で検索すると

A:表現の自由の絶対性を訴えるもの
B:拡大適用により、明らかに問題でないものが規制される危険性を訴えるもの

の二通りがあるように思われる。Aは1、Bは2の論拠を用いているもの(もちろん両方を主張するものも多々見られる)だが、論拠のうち1はさらに細分化できて

1-1:表現の自由が絶対的なものである
1-2:表現の自由は場合によっては規制されるが、今回はその場合に該当しない

と二つに分けられる。このうち、Aは1-1に依拠した議論である。1-2に依拠した議論は、表現の自由の線引き問題をきちんと論じ、どこまでが規制されるべきものかを考察したものだが、このようなタイプの議論は今回の問題に関してはあまり見受けられなかった。

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3×5と5×3を小学校教育で分けることについて(追記)

先日の記事、「3×5と5×3を小学校教育で分けることついて」に@t_udaさんから鋭い指摘をいただいたのでそれに絡めて追記

結論に至る重要な部分の数学的記述が不正確なように思われるので突っ込ませて下さい。

> "一般に「pをq回足すこと」と「qをp回足すこと」が同一の結果となることは、積の可換性、p×q=q×pを用いなければ示すことはできない。"

これは嘘ですね。抽象的な代数として「pをq回足したもの」を p×q の定義とするならば、×の可換性は示せます。もっとも、帰納的な「証明」(と自然数の加法の定義)が必要なので、結局小学校レベルの算数を逸脱してしまいますが。

もともとの私の書き方自体が不正確であったのもあるが、このコメントは帰納的な方法による可換性を示す方法の可能性に言及したものと理解できる。実際こうした帰納的方法は先日の記事を書いた段階ではあまり考えていなかったので、この点について突っ込んで考えてみる。

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3×5と5×3を小学校教育で分けることについて

Twitterで話題となっていた「かけ算の5×3と3×5って違うの?」という議論がある。発端はこの日記らしく、ここではかけ算の順番の意味として「かける数」と「かけられる数」の意味的な差異を中心として論じている。これについては考え方の押し付けである、子供の芽をつぶす等さまざまな議論がなされたが、論点の食い違いや主観的議論のためになかなか噛み合っていないように見受けられた。そこで、かけ算の順序の区別が指示可能であるとしたら、クリアしなければいけないポイントを絞ると

1:(小学校レベルで出現する範囲の問題での)数学的体系としての妥当性
2:掛け算を教える教育手法としての妥当性

の二点が論点になると考えられる。ただ、2については個人差も大きく、論者の主観によるところも多くなるのでこの部分は最低限に絞り、主に1について論ずることとする。

まず、「かけ算の順序を区別すべきでない」とする側の論として、演算としては5×3と3×5は等しいという点を挙げる人が多いように見えたが、これは外延と内包の混同であると思われる。外延と内包を区別しないと議論が混乱するので、ここで一度整理しておこう。
「外延」というのは、そこで指示されたカテゴリに具体的に何が属するか、という、いわば結果を問題とした視点である。他方、「内包」というのは、指示の具体的な意味に着目した視点である。例えば、地球上の生物で、腎臓を持つ生物はすべて心臓を持ち、またその逆も正しかったとしよう。この場合、「腎臓を持つ生物」と「心臓を持つ生物」は、その集合の要素は全く同一である。だが、にもかかわらずこの二つの指し示す意味は異なっている。この場合は、外延は同一だが内包は異なる状況となる。
さて、「5×3」と「3×5」について、その区別を擁護する人々はその内包の差異、すなわち意味の差異を問題にしていた。これに対し「どちらも同じ15だ」という応答は、その外延が等しいことを示しているにすぎないので、この応答は妥当だとは言えない。

では、かけ算の順序の区別は妥当なのだろうか。しかし、そういってよいかどうかは、もう少し考えてみる必要がある。それは、この方法で数学的にきちんとした体系となっているかどうかのチェックである。

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生物多様性について

今年はどうやら生物多様性の年だとかなんかで、本やニュースでもやたら生物多様性が特集されているらしい。だが、「生物多様性を守れ」とばかりに動いているアピールには正直疑問を禁じ得ない点もある。先日のNHKの朝のニュースで、「外来種のザリガニが増えることで、昔から地元にいたトンボが激減している」ということを「生物多様性の危機」として報じていたのだが、いろいろと違和感を持った。

トンボとか他にはホタルとかを守ろうとするこういう試みはいいと思うのだが、単刀直入に言ってしまえば「そうした運動はトンボとかホタルを守るためのものであって、別に生物多様性云々は関係ないんじゃないのか」ということである。

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死刑存廃問題

死刑の公開か何かのニュースで死刑制度の存廃が話題となったので、それに絡めて。
死刑廃止論といってもいろいろあるが、その論拠としては大きく分けて以下の二通りになるだろう。

1 凶悪な犯罪者を殺すこと自体に反対するもの
2 凶悪な犯罪者を殺すこと自体には反対しないが、その副産物的な部分に問題があるとするもの

1の論拠としては「国家が殺人を禁じていながら、国家自身が殺人を犯すのは矛盾している」というタイプの批判がメインだといえよう。
2の論拠としては「冤罪の場合に取り返しがつかない」というタイプの批判がメインだといえよう。
この二者を混同すると、批判の矛先がずれるので、これはきちんと峻別しておく必要がある。その上で、これらの批判の妥当性を順に見ていこう。

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原爆と核廃絶

原爆の日になると、必ず核兵器批判が出てくる。例えば

被爆地・長崎は9日、65回目の「原爆の日」を迎えた。爆心地に近い長崎市松山町の平和公園では、長崎原爆犠牲者を慰霊する平和祈念式典が開かれ、 被爆者や遺族ら約6000人が参列。原爆投下時刻の午前11時2分、全員で1分間黙とうし、鎮魂と平和への思いを新たにした。「長崎平和宣言」で田上富 久・長崎市長は、今年5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議で核軍縮交渉などの期限設定を核保有国が退けたことを強く批判。「核保有国の指導者の皆さん、『核兵器のない世界』への努力を踏みにじらないでください」と世界に訴えた。
 田上市長は「核保有国が核軍縮に誠実に取り組まなければ、それに反発して、新たな核保有国が現れて、世界は核拡散の危機に直面する」と指摘。5日に長崎を初訪問した潘基文(バンキムン)・国連事務総長が国連加盟国に呼びかける「核兵器禁止条約」への強い支持を表明し、核兵器廃絶への決意をアピールした。
 また、被爆65年にして存在が明確になった「核密約」に触れ、「非核三原則を形骸(けいがい)化してきた」として過去の政府の対応に強い不信感を表明。NPT未加盟の核保有国インドとの原子力協定交渉も「NPT体制を空洞化させ、容認できない」と批判した。
 その上で日本政府に▽非核三原則法制化への着手▽核の傘に頼らない安全保障を実現するための「北東アジア非核兵器地帯」構想の提案--を求め、被爆国として国際社会で独自のリーダーシップを発揮するよう促した。
「長崎原爆の日:65年の祈り 核廃絶の努力、踏みにじらないで 市長、保有国に訴え」

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戦後補償問題と謝罪について

バターン死の行進について、米兵被害者を平和交流の企画に招待するらしい。それ自体はあまり関心ないのだが、問題はその解説部分

◇戦後和解への一歩
日米間では、捕虜問題のほかにも米国による原爆投下や都市への無差別空襲で、戦後和解の議論が政治レベルでは事実上封印されてきた。背景には強固な日米同盟や、互いの賠償請求権を放棄したサンフランシスコ平和条約(1951年調印)の存在がある。
だが戦後半世紀以上が過ぎ、藤崎駐米大使が元捕虜に直接謝罪したほか、ルース駐日米大使が8月6日の広島での平和記念式典に米代表として初出席を決めるなど「誠意の問題」としての歩み寄りは兆しが見え始めている。その意味でも、元捕虜の招待事業は、和解への大きな一歩になる。
ただ捕虜問題では、日本企業側は沈黙を続けており道半ばだ。強制労働について日本企業を相手取った米国での損害賠償請求訴訟で敗訴したテニーさんは「法的責任はなくとも道義的責任はあるはず」と訴える。日本企業が招待事業を続けるための資金を提供するなど方法はある。
過去の責任を問われれば、身を守ろうと否定的な考えになりがちだ。だが問題解決を先送りすれば、結局は未来にも禍根を残すのは明らか。歩み寄りの道がないか日本企業も考える必要があり、双方が和解とは何かを考えるきっかけにすべきだ。【隅俊之】(毎日新聞:「バターン死の行進:68年 元米兵捕虜、初の招待 政府、9月に6人」

この問題そのものというより、これは戦後補償や謝罪の問題で繰り返し見る構造なので、この問題に絞らず以下では論じたい。特に「企業への批判」よりは「日本(政府)への批判」の方が一般には多いので、それを念頭に置いて論じていく。

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犯罪は社会の責任なのか?

死刑存廃の論議に絡んで、しばしば「犯罪は社会の責任である」という観点からの死刑廃止論が展開されることがある。例えばアムネスティ日本支部

犯罪の背景には、多くの場合、貧困や社会的差別があり、死刑によって犯罪者を排除しても問題は解決できない。

と述べている。けどこうした主張は一見もっともらしいが、それは死刑への議論へは実は力を持っていない。

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参院選と「一票の格差」(2・完)

さて、そもそもの問題に移ろう。「一票の格差」というと最高裁も違憲判決を出したこともあるぐらいなので、問題だというのが一般的認識である。だが、そもそも「一票の格差」はなぜ問題なのだろうか。

まず、政党の観点から。政党の得票数と議席数の逆転が起こりうるという、すでに見たような批判がある。だがこの批判は、政党の選挙対策によって消滅させることが可能で、さらに前の記事で述べたように、政党という観点からは一票の格差よりもはるかに大きな「立候補者の不在」という問題を解決しなければならないにもかかわらずそれをしていないという自己矛盾があるので、この観点は説得力ある形では展開できない。

では、政党という縛りをかけずに、マクロで当選した候補者同士の背景にある票の数の違いを考えたらどうだろうか。つまり、有権者200万人の選挙区から120万票集めて当選したAと、100万人の選挙区から60万票集めて当選したBとの(政党を抜きにした)純粋な比較である。一見Aの方が、より多くの人を背景に据えているので重みがあるように見える。しかし、本当にそうだろうか。ある一定地域内に、ある候補者の主張や姿勢に共鳴してくれる人の割合は恐らく一定だろう。だとすると、もしBが2倍の人数である200万人の選挙区を対象に同様の主張を行い選挙活動をしたならば、2倍の票数である120万票を集められたと考えるのが妥当である。ならば、Bの方がAより信頼に足らないと考えることには何ら根拠はない。

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参院選と「一票の格差」(1)

今回の参院選は民主の惨敗に終わった。しかし、この結果については、必ずしも民主の敗北、自民の勝利を意味してはいないという声が、特に「一票の格差」を問題視する視点から挙がっている。


普段から政局に鈍感な私は、およそ選挙の結果について語る立場からはほど遠い。しかし、その選挙の素人でも思わず気になったのが、得票数と当選者数のねじれ現象である。
今回の参議院選挙では、選挙区・比例代表を合わせた総得票数で民主党が自民党を大きく上回った。それにも関わらず、獲得議席(改選議席数)で自民が民主を逆転したのは周知の通りだ。先の衆議院選挙で、民主党が得票比率を大きく上回る大勝を遂げたのとは実に対照的である。

もちろん、このパラドキシカルな現象の背景に横たわるのは、衆参両院における選挙制度の違いに他ならない。これは、過去2回の国政選挙を通じて、多くの有権者が「選挙制度の違いが政局や国政を実際に大きく左右しうる」という教訓を学んだことを意味する。
SYNODOS「シノドス参議院アンケート(2) 安田洋祐」



制度の欠陥が、ゆがんだ結果をまた生んだ。 参院選が今回改めて警告している。 「一票の格差」が大きすぎる。
今回の選挙区での最大格差は、神奈川県と鳥取県の間の5・01倍だった。 神奈川では69万票を集めた民主党候補が落選、鳥取では15万票台の自民党候補が当選した。大阪や北海道、東京、埼玉、愛知では50万票を超えた人が敗れた。最少の13万票台で勝てた高知や、20万票以下で当選した徳島、山梨などとの「一の価値の不平等」は歴然だ。
全選挙区での総得票数と議席数を比べてみても、深刻さが浮かぶ。民主党は2270万票で28議席を得た。 一方、39議席を獲得した自民党は約1950万票にすぎなかった。民主党は「軽い一票」の都市部での得票が多く、自民党は人口が少なくて「重い一票」の1人区で議席を積み上げた。票数と議席数の関係のゆがみは一票の格差の弊害そのものだ。
選挙区でも比例区でも民主党を下回る票しか集められなかった自民党は、果たして本当に勝者と言えるのか。 そんな疑問すら抱かせる結果である。
朝日新聞社説「一票の格差――選挙結果ゆがめた深刻さ」


こうした、日本全体でみた政党の総得票数と議席数の乖離を批判する声は一見もっともらしいが、実はいろいろと問題がある。

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雑感

ブログ等と比較したとき、Twitterのよくない点は、誤った情報がながされているときにそれに対して訂正・反論の情報を確実に流す手段が存在しないこと。誤った情報を流した人をフォローしている人が、自分もまたフォローしている保証はどこにもないのだから、自分が反論をツイートしても見てもらえる保証はない。

というわけで、Twitterでやたら流れてきた科学系の話題2つ。

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科学理論と現在の「特権性」

科学哲学において、実在論と反実在論という二つの立場がある。それぞれ、前者にはパトナムの奇跡論法、後者にはラウダンの悲観的帰納法という有力な議論が ある。二者の立場の詳細は伊勢田氏の解説に譲るとして、ここでは既存の議論とは異なる視点から実在論を論じてみたい。

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会議におけるコミットメント

会議において「理屈っぽい」という批判がしばしば行われる。これは「発言者の位置が中立的すぎて、どこにコミットしているのかわからない」という点につい ての批判らしい。しかし、この批判は状況によってそれが妥当するか否かが変わると思う。

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靖国合祀の話と人権の話

「靖国合祀イヤです訴訟」と呼ばれるものがあるのだが、そこでは靖国に合祀された人の遺族が合祀を取りやめるように靖国を訴えているらしい。
この問題のポイントは、靖国はただ手続的に合祀を行っているだけで、物理的には(例えば遺骨を返さないとか)何も被害を与えていないという点であろう。なので、遺族は遺族なりに祈ることは現状でももちろん認められており、「各自がバラバラに死者の意味付けを行い、それに基いて祈る」ということは可能な状況にある。それを踏み越えて「遺族のみが死者の意味付けの解釈独占権を有し、他者の祈りについてはそのやり方を強制することが出来るか」というのがこの問題の核心になる。(訴状も法律論としてはそういう骨格になっている)

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非人道兵器の人道性

通常非人道兵器と呼ばれる兵器、BC兵器、地雷、ダムダム弾、毒ガス等は、通常兵器と比べても非人道的であるとされ、戦闘での使用が禁止ないし制限されている。だが、本当に非人道兵器は人道的でないのだろうか。

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エリート校と経済格差

なんか国立大付属小・中・高校が批判されているよう(熟議カケアイ)。
特に私もいたことのある筑波大学付属駒場高等学校(筑駒)は、東大入学者が多かったりでやたら批判にさらされることが多い。

けど、なんかいろいろ誤解したまま批判している人も多いようなので、とりあえずいくつか書いておく。


まず、筑駒はエリート校って言われるけど、とりあえず学内の先生は大学受験に関心をほとんど持ってない。少なくとも、他の公立と比べれば低い。先生は好き勝手なことを教えているだけ、こんなのは国立付属校にいたことのある人ならわかるはず。
じゃあなんで東大合格者が多いって、それは一部は勝手に勉強する人がいるからと、後の大半は塾に行くから。もちろん高校で「知る楽しみ」を教えて、それによって勉強を自発的にするようにするという理想的なフローについては、うちの高校はある程度実現されている気はするが、それは受験教育云々とは程遠いものだろう。

次。筑駒のようなところは実験校として機能しないという批判。これについては、他の公立校で出来ないようなとんでもない授業をする先生がごろごろいるし、すごい教え方をすることもしばしばであるのだから、十分実験校として機能すると思う。
サンプルがエリートに偏っていて平均的でないという意見もあるが、そもそも国は平均的な学生向けの教育法開発しかしてはいけない、という前提に立っている時点でおかしい。勉強が出来る人対象の教育法を考えることは十分意味があるし、そのための実験をすることは意味があるだろう。

また、上のリンクでも言われている
一般の公立校と比べて教育実習生の授業が多いことから、多少の選抜はやむを得ないかもしれません。しかしながら、こんなにも経済的に豊かな家庭に生まれた超優秀児を集める必要があるのでしょうか。
という経済的な問題について。これについてはまったく逆。

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小沢幹事長起訴相当と共同謀議

小沢幹事長が起訴相当になったことがいろいろと論議を呼んでいる。
この「起訴相当」の決定を批判するものとしては、例えば以下のようなものがある。

本件の核心は、水谷建設より1億円(5000万2回)が小澤氏側に裏献金されたという構図にあり、当然のことながら、裏献金の受領があれば、政治資金収支 報告書には不記載となるから、その報告書は虚偽記載となる。

しかし、この水谷建設からの1 億円裏献金話は、今般の検察審査会の議決内容には無く、前述のように4億円不記載容疑も無い。
したがって、記載されている容疑は、取得した不動産 の支出と伴い取得された不動産を04年度収支報告書に記載せず、05年度に記載した期ずれだけということになる。

また議決にある意図的に 小澤氏の資金を隠そうとしたという内容は失当であり、陸山会平成16年度政治資金収支報告書には「小澤一郎借入金4億円」と明記されている。
そして土地資産は翌年の06年度(平成17年度)に同会政治資金収支報告書に明記されている。
因って、意図的に隠すなら、平成16年度政治資金収支報 告書に小澤氏個人からの借入金を書いたりはしない。

したがって本件は、借入金と伴う不動産取得と登記の関係で、単に石川議員が登記時点に て不動産取得、つまり06年度に登記をもって資産計上するものと判断したとするのが自然である。
小澤氏個人からの借入金4億円は、平成16年度報 告書に明記されており、且つ、取得された不動産は平成17年度に明記され、今日も総務省HPにて確認出来る。

即ち、共謀共同正犯以前に、 陸山会自身が意図的に虚偽記入する利益が無い。
なぜなら、前述のとおり、小澤一郎個人から陸山会への借入金4億円は明記され総務省に提出公開さ れ、且つ、翌年には登記後に取得された土地資産が明記されこれも総務省に提出公開されているからである。
また更にその借入金は、2年後に小澤一郎 個人に利息付で返済されており、そこに意図的な資金隠しや不動産隠しがあるわけではない。
oliver! News



しかしまた、「議決の理由」を読んで、また驚いた。
「情況証拠」しか挙げられていないのに小沢氏の「共謀共同正犯」を結論づけているからだ。

「直接的証拠」として会計責任者やその職務を補佐した者が「収支報告書を提出前に」小沢氏に「説明し」、小沢氏の「了承を得ている」ことが挙げられてい る。
だが、これは、「虚偽の報告」をすることを「説明し」「了承を得ている」、ということではないから、証拠としては十分であるとは言いがたい。
上脇博之 ある憲法研究者の情報発信の場「検察審査会の小沢一郎「起訴相当」議決には2度驚いた!」


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贈与の成立要件

大分前の問題だが鳩山首相の母親からの9億円贈与問題について。
これについて平野浩氏が


鳩山首相の母親からの贈与に疑問。贈与 とは「ただでものをあげること」が常識だが、ところが民法上は「贈与の当事者同士が贈与契約を交わすこと」とあり、要件に該当しな い。http://www.olive-x.com/news_ex/newsdisp.php?m=0&i=12


ツイートしており、このリンク先を見てみると、徳山勝氏が


鳩山首相の故人献金問題。確かに秘書の行ったことは褒められたことではない。だがマスメディアは、首相と母親の間に贈与が成立していない事実を、報道しな かった。

グーグルの検索機能を使って、「贈与・成立要件」と入れると、一発で贈与が成立 していないことが分かる。筆者はLサイドコラムで、贈与が法的に成立していないと指摘したが、この事実をマスメディアは全く報道していない。おそらく首相 は国会答弁で、「贈与の要件を満たしていない。法的に脱税ではない」と言いたかっただろう。
だが、言い訳に聞こえる真実を抑えた。その事実をマス メディアは報道しなかった。

贈与成立の要件など、おそらく9割以上の国民は知らない。同様に、マスメディアの若い記者は不勉強だから知 らないだろう。だが、デスクは知っていたはずだ。彼らは真実を報道することを放棄し、マスメディアの既得権益(クロスオーナーシップや新聞の再販制度)を 守るために、新政権の足を引っ張った。マスメディアは、正当な批判をしたのではない。同じことが、小沢幹事長に対するバッシング報道でも言える。
「政局や批判よりは、政策や真実を報道することだ」oliver!news


と書かれている。

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「説得力」という発想の罠

よく議論等において「説得力がない」などといい、説得力の有無の要因として「誰が話しているか」を挙げることがある。確かにこれは現象の観察としては正しいが、しかしこれが「いいもの」であるかのごとく錯覚すると大きな問題がある。

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シグナリングと優遇措置

学歴が優秀性のシグナリングとして機能するという話は、スペンス以降よく聞くようになった。それに絡めて、人種差別と学歴シグナリングの逆説的なつながり――アファーマティブアクションが逆に優遇した人達を損にさせてしまうという点――を指摘する話もときどき聞くようになった。その例として、J.ミラー『仕事で使えるゲーム理論』阪急コミュニケーションズを取り上げよう。

シグナリング理論によると、大学がある人種を差別すれば、雇用者は逆にその人種を優遇することになる。悲しいかな、その逆もまた真なのだ。
不当に差別された人たちを救済するアメリカの積極的優遇措置は、大学が卒業生の資質を証明するという役割に関する限り、優遇措置の対象となる人種グループにかえって悪影響を及ぼしてしまう。高校生の学業成績を0点から100点に換算するとしよう。ある難関大学が、Xグループからは90点以上の学生を受け入れ、Yグループからは積極的優遇措置によって85点以上の学生を受け入れるとしたらどうか。この大学に入る最大の利点が、学生の資質の高さを証明するシグナルの発信にあるとしよう。不幸にも積極的優遇措置のために、この大学を卒業したというシグナルの価値は、優遇されたYグループの方が低くなってしまうだろう。
(pp213~214)

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核密約と原爆被害

核密約があったということでいろいろとニュースになっている。その中で広島・長崎の被爆者団体が強く抗議しているというニュース(時事ドットコム)があるのだが、なんか少しずつずれているように感じられる。

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理系思考と文系思考?

雑誌プレジデントに「売れない時代に必要なのは理系脳か文系脳か」という記事があった。
まずこの記事では理系的思考と文系的思考を

理科系の発想は、「現実の拠ってくるところの原因」を追究し明らかにしようとする発想だ。自然科学の世界にぴったり合うが、それが社会現実の把握や統制にも用いられる。ここではそれを「科学的理解の立場」と呼ぼう。
 もう一つは、文科系の発想だ。それは、科学的理解を解きほぐして、当事者の理解に差し戻すことで見えてくるところの、「ほかにも、何か可能性がありえたかもしれない」という想像力が働くような現実理解の立場である。そうした「不可能でなく必然でない様相」は、哲学の世界では「偶有性」と呼ばれる。科学的理解に対比させて「物語的理解」と呼ぼう。

と説明している。
そのうえで、カルビーのポテトチップスの鮮度管理に関する経営戦略を例にとって

鮮度管理概念の誕生においては、(1)意識して苦難の道を歩む先取りの選択、(2)先取りした流通革新の実施、(3)鮮度に対 する高い感度、そして(4)当初の切実な問題を潜在化させる販促の成功があったのである。こうしたエピソードは、科学的理解が示すストーリー、「原因が あって結果がある」というような、いわば出合い頭の話ではなく、いろいろな解釈が生まれそうな複雑なプロセスのありようを暗示している。こうした違いを反映して、たとえば、「ビジネスにおけるリーダーシップとは何か」という重要な質問に対する二つの発想の答えはたぶん違うだろう。
さて、「鮮度管理がなかったことが、販売不振を引き起こし、それを解決するために鮮度管理体制を構築した」というのが、鮮度管理概念の誕生についての科学 的理解。だが、その理解では、当時関わった方々のさまざまな思いや目論見、あるいは先行する諸策や後に続く諸策への考慮には及ばない。当たり前といえば当 たり前だが、科学的理解においてはいろいろありえたはずの可能性を汲みあげる志向はない。時には、単純化のために大きいデフォルメの機制も働く。そこに、 現実の中に潜在する「ほかでもありえた」可能性を組み込み、現実を深い深度で理解しようというもう一つの立場の意義がある。
 理科系発想と文科系発想、科学的理解と物語的理解。どちらが優れているというものではない。ここでは、ビジネスの世界で支配的な理科系発想が現実理解の 唯一の方法ではないこと、隅に追いやられてしまいがちな文科系発想は、科学的理解の及ばない射程を秘めていること、このことをここでは確認しておきたい。 物語的理解が経営実践に持つ意義については、機会をあらためたい。

とまとめている。
さて、この記事については、そもそも理系思考・文系思考というカテゴライズの問題と、そこから引き出す結論の問題の二点についてやや疑問がある。

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死荷重・サービス業・免許

なんか「弁護士費用は死荷重だ」「弁護士は免許ではなくて資格で十分」といったことで池田信夫氏と小倉秀夫氏の間で論争が起きているようである。

さて、この論争において、池田氏は二つの異なる主張を行っているように思われる。

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「離党」の意味

政治資金規正法違反で起訴されていた石川議員が民主党を離党したらしい。(asahi.com
この件にはあまり関心がないのだが、一つ気になったのが「離党」という行為が責任の一つのとり方として認識されているという事実である。擁護する側はもちろんだし、批判する側も「それでは責任の取り方として不十分」という感じの物言いである(自民党大島幹事長の「離党で済む話ではない」という言い方は「離党で済む話もある」ということだろう。時事ドットコム)。
だが個人的にはこの認識にものすごく違和感を覚える。

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「ニセ科学批判」批判のようなものについて

ウェブで見つけた記事だが

 ニセ科学批判ほど、画一化した思想はない。もともと、ニセ科学批判という創造的な概念を開発したのは、菊池教授である。菊池教授こそが疑似科学批判という概念を一歩前進させ、ニセ科学批判という新しいジャンルを生み出したのである。
 そして、多くのブロガーたちを魅了し、自己の思想に賛同する信者をつくってきたのである。確かにネットにおける新型の社会運動として評価できる側面もあるのだが、宗教組織と似た特質が見受けられ、その思想と方法はあまりにも画一的である。
 
  まず、菊池教授のニセ科学批判の考え方に反対するニセ科学批判者はほとんどいない。菊池教授のブログ「キクログ」という聖地があり、多くのニセ科学批判者 が集い、語り合う。サブリーダーたち=常連たちがおり、その下にあまたのニセ科学批判に同調したブロガーやコメント屋がいる。
 興味深いことに、もし自分たちの論理に合わない発言をしたら、攻撃をくらい、訂正しないのなら、ニセ科学批判者から閉め出され、異端視され、ニセ科学批判批判者としてレッテルを貼られる。
 例えば、安易なニセ科学批判を自己のブログですると、サブリーダーたちからの襲撃をくらい、異端者のレッテルを貼られ、正規のニセ科学批判者のグループからはじき出される。
  そのようなかたちで、当初、ニセ科学批判に賛同していたブロガーが、自己の説の自由性・個別性を否定され、ニセ科学批判批判者へと変貌していくのである。 ニセ科学批判は誰にも開かれた思想ではあり得ないのである。異端派のニセ科学批判者は、いずれニセ科学批判批判者となるのである。(「ニセ科学批判に多様性・自由性は存在しない」)

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論理と感情は二項対立関係か

論理と感情はしばしば二項対立的に捉えられる。例えば「人間は論理ではないのだから」などのテーゼには、そうした前提が潜んでいる。だが、論理と感情は二項対立的というよりも、むしろ次元の違う内容を比較してしまっているのではないだろうか。

感情というのは、単純に「~したい」「~は楽しい」「~は嫌だ」といった一つの感覚である。ここにあげた例ほど簡単ではない複雑な感情でも、本質的にはすべてそうである。なので、感情は「人間の行動・判断に対する動機付け(モチベーション)」である。
他方、論理というのは「AだからB」といった、正しい結論を導くための規則である。やや難しくいいかえると、論理とは「「何が正しいか」を決定するための唯一の方法」だということである。いかなる主張も、論理以外の方法では正当化されえない。


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不起訴処分と批判可能性

小沢幹事長が政治資金規正法違反について不起訴になったことに関連して、堀江貴文氏がブログで以下のように書いている。


んで、政治資金規正法違反はシロになったのは事実。これは特捜部とそれを祭り上げたマスコミの責任だ。重責を感じるべきだ。反省しろ。謝罪会見でもひらく がいい。小沢氏は政治力もあったから特捜部の恫喝に耐えられたが一私企業の社長などひとたまりも無かった。これまでも多くの人たちが屈服している。

それをヤメ検を使って事件の処分には、起訴・起訴猶予・不起訴があり、不起訴には嫌疑不十分と嫌疑なしがあるのだが、小沢氏は嫌疑不十分なので完全にシロ ではないとか負け犬の遠吠えを発していたが、司法の大原則は疑わしきは無罪。つまり黒でなければ、シロなんだ。でなければ、告発された人たちはみんな黒だ と思われちゃうでしょ。


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日中共同歴史研究の根本の問題

個別個別の歴史事実を論ずるのが瑣末だと先日の記事で書いたので、根本的な問題の方について書いておこう。

まず、そもそもなぜに共同で歴史を研究しなければならないか、という点をきちんと考えたい。一口に「歴史」と言ったが、「歴史」には、事実として何が起き たかという「史実」の問題と、どの史実をどのように一本の話として紡ぎあげるかという「叙述」の問題がある。後者はいわゆる歴史教科書問題で「~を美化し ている」「~を悪く書きすぎだ」「~を教科書に載せるのはおかしい」等々の形で出てくる類の問題である。

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南京事件に関する数についての不毛な論争

日中歴史研究報告書が発表されたらしい(時事ドットコム)。ここで南京事件についても触れられていて、いろいろの場所で取り上げられているようなので、個人的には瑣末な問題だとは思うのだが、誤解も蔓延っている問題なので簡単に整理しておこう。

まず日本側が「20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がなされている」と主張したとあって、一方の中国側は30万人(判決文の引用という形しか記事には載っていないので確証は出来ないが、過去の中国側の発言からはそう考えるのが自然)と主張している。20万と30万ならほどほどには近いのかな、と思うと大きな落とし穴がある。この二つは南京事件の定義が違っているのである。


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公的意思決定の問題と小さな政府

池田信夫blog「政治の最小化」という記事に、以下のような記述がある。

公的意思決定は経済学でも厄介な問題で、センは半世紀にわたる研究の結果、一義的な社会的意思決定を放棄し、多様な基準の中で相対的にましな状態を試行錯誤で選ぶしかないと結論している。個人の意思を投票で集計する民主主義には本質的な欠陥があるので、必要なのは公的意思決定をなるべく政治にゆだねない制度設計である。

最近、「ネットで直接民主主義を実現する」とかいうくだらない議論があるが、重要なのは政治に参加することではなく、政治が個人の生活に干渉する領域を最小化することだ。ポズナーも指摘するように、人生には政治より大事なことがたくさんあるのだから。
(強調ママ)

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土佐弘之『安全保障という逆説』~国家安全保障の制度的思考に意味はあるか

さて前の記事でも取り上げた土佐弘之『安全保障という逆説』についてだが、要するに本書の要旨は「国家という制度的思考そのものが国際政治の本質を見えなくしており、制度的思考そのものを乗り越えることが必要だ」ということであろう。

さてではなぜ国家という制度的思考が無効化してくるのだろうか。筆者の主張を簡潔にまとめると
・主権国家の枠組みに収まらないアクターが増加している
・主権国家の枠組みから排除された人々への配慮が全くない

という二点に収斂するだろう。この二つの主張は、本書に限らず、多くの国家批判で取り上げられている論拠であろう。

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辺野古移設反対はいいが現実的対案はあるのだろうか

名護市長選で県外移設派の候補者が当選したらしい(毎日jp

いや、別にいいけど対案として果たして何があるのだろうか。もちろんアメリカが無条件に基地を撤収するとかそういう案を呑むのなら理想であるが、そのような理想が現実される可能性は果たしてどれくらいあるのだろうか。現実的対案を提示できなかったら移設は行われないのだから、結局普天間に基地が残るだけであろう。

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「休学」という流行現象

なんとなくだが、俗にいうアクティブな学生、行動力のある学生が、1年ないし半年大学を休学して何かしようとする傾向が強まっているように思う。それに関 して自分としては「明確な大目標があって、それの実現のためには休学しかないんだったら休学した方がいい。けどそういう大目標がないならやめた方がいい」 と考えている。

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バックラッシュ批判の構造問題

多くの言語論的転回を受容する人々(社会的構築主義者)の議論、例えば金森修『サイエンス・ウォーズ』、土佐弘之『安全保障という逆説』、上野千鶴子等共著『バックラッシュ!』では、彼らの批判する本質主義的な議論を「バックラッシュ」として強く批判されている。だが、落ち着いて考えてみると、こういう形での批判は自己論駁的ではないかとの感が否めない。


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理性の限界?(2)~不完全性定理

さて今回はこれまた誤解の多い不完全性定理について取り上げる。

完全性定理については、本書ではわりと正しく書かれている。

簡単に言えば、論理の世界では、「真理」と「証明」が同等だということです。論理的に真理であるということは、公理系で証明できるということと同じであり、その逆もまた成立するということです。(p219)

ところが、そのあとの説明でいきなりおかしな方向へ行く。

ところが、数学の世界では、「真理」と「証明」が同等ではないわけです。つまり、数学の世界には、公理系では「汲みつくせない」真理の存在することが明らかになったわけです。このことを証明しているのが、「自然数論の不完全性定理」なのです。(p219)

一方の不完全性定理については以下のように説明される。

論理学者 それでは、ここで不完全性定理の結論を述べましょう。一般に、システムSが正常であるとき、真であるにもかかわらず、Sでは証明可能でない命題が存在します。(p224)

まず確認しておかなければならないことは、完全性定理の「完全」と、不完全性定理の「完全」とでは意味が全く違うということである。

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理性の限界?(1)~不確定性関係

高橋昌一郎『理性の限界』という本をパラパラと見てみたのだが、生半可な理解で犯しがちなミスをことごとく犯しているので、何回かに分けてきちんと解説しておく。

まず相対論に関して少し取り上げよう。

司会者 時間と空間が相対的というのは、どのようなことなのでしょうか?
科学主義者 文字どおり、時間や空間も観測者の運動に応じて異なるという意味です。
(p134)

この説明はなんかポイントを捉え損ねている。相対性原理はアインシュタイン自身の原論文では以下のように定義されている

互いに他に対して一様な並進運動をしている、任意の二つの座標系のうちで、いずれを基準にとって、物理系の状態の変化に関する法則を書き表そうとも、そこに導かれる法則は、座標系の選び方に無関係である(A.アインシュタイン『相対性理論』p20)

つまり、相対性原理というのは「どの座標系からみても同じ物理法則でいい」ということである。例えば、私が静止していてAさんが一定の速度で遠ざかっているとき、「私が止まっていてAさんが遠ざかる」とみようが、逆にAさんの立場に立って「Aさんは止まっていて私が遠ざかる」とみようが全く同じ物理法則が成り立つということである。
なんか当たり前の法則のような気がするが、(この本では触れられていないが)静止エーテル問題というのがあって、もし静止エーテルが存在するならば、静止エーテルを基準として動いているか止まっているかが規定されるので、上記のような相対性原理は成り立たなくなる(プールの中では仮に私が止まってAさんが動いているならば、私を基準のとるかAさんを基準にとるかで、同じ物理法則が成り立つとは言えない(Aさんを基準にとったら水が押し寄せてくるように感じるだろう)ことをイメージしていただきたい)。ちなみに、空間が観察者に応じて異なるのはニュートン力学でも同じである。

さて、本題の量子論である。誤解の多い不確定性関係について、本書では以下のように導入される。


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マクロ経済学における動学モデルの不遇

古くなったが、『現代思想09年8月号 経済学の使用法』を読んでみたのだが、なんかいろいろひどい。東大の経済学の教授の吉川洋氏が「いま経済学に何が問われているか」という論文を、上智の経済学の教授の平井俊顕氏が「経済学はいずこへ」という論文を寄せているが、経済学の観点と科学の観点と双方からなんか引っかかるところが多い。
まず吉川論文から。

実際、二〇〇八年秋から深刻化した金融危機、世界同時不況の下で正統派の経済学は何もいうべきものを持たなかったのである。(p83)

正統派の意味はよくわからないが、本文の流れを読む限りとりあえずマクロ動学モデルを用いている経済学者としておいていいだろう。で、アメリカでも日本でも、そうした経済学者は今回の金融危機に積極的に発言していたと思うのだが。例えばBarroの記事はこれに当たるだろうし、ケインズ派の人びとが持ち上げるKrugmanだって動学モデルを用いている。もちろんKrugmanは金融危機に積極的に発言している。

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竹島の教科書叙述の根には、結構哲学的な問題がある

竹島の教科書記述の問題が起きているようだ。

高校で2013年度の新入生から適用される新学習指導要領をめぐり、文部科学省は25日、地理歴史などの解説書を公表した。日本の領土問題に関しては、韓国が実効支配する竹島は例示せず、地理A・Bで新たに「中学校における学習を踏まえる」と記述した。中学の解説書で竹島を明記した昨年と対応が分かれた。

現行の解説書と同じく、例示した領土問題は北方領土のみ。鈴木寛文科副大臣は、竹島に関し「中学で北方領土と同様に指導するとしており、高校でも指導がなされる」と説明した。

明記しない理由として、学校の裁量を増やすために指導要領などを簡潔にする「大綱化」を民主党が目指していることを挙げた。「領土問題をどう教えるかは、相手国に配慮すべきではない」とも述べ、韓国への配慮はなかったと強調した。時事通信


本論の前に一つ。とりあえず「学校の裁量」というのは意味が違うと思う。教育現場において裁量が発揮されるのは「どのように」教えるかの部分であって、「何を」教えるかの部分ではないはずである。教えるべき内容を「わかりやすく」教えるのは教師の腕であり、それを教える対象によって変えるのは教師の臨機応変さであるが、「何を」教えるかは教える対象に依存しないため、「何を」における裁量権は教師が好き勝手出来るということしか意味しない。

朝日新聞の社説によると

領土問題について、日本の立場を正しく学ぶのは自然なことだ。そのうえで、ほかの国と争いがあるものは、相手の言い分にも耳を傾ける姿勢が必要だ。中学、高校の新しい解説書は、そのことを強調しているとも読める。


具体的な教科書記述を見ていないのでなんとも言い難いのだが、ここで想定されている教え方はおそらく「日本は「竹島は日本領である」と、韓国は「竹島は韓国領である」と主張している」みたいなものだろう。だが、このありがちな叙述は、実は結構哲学的な問題を引き起こすように思う。

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続:天皇会見1か月前ルールと「法」の崩壊

小沢幹事長がこの件について記者会見した。(読売新聞


民主党の小沢幹事長が14日夕の定例記者会見で、天皇陛下と中国の習近平国家副主席との会見に関して述べた内容は以下の通り。

 ――皇室外交について、どのような考えを持っているか。

 【小沢氏】どういう意味?

 ――習副主席が来日したが、天皇陛下との会見が30日(1か月)ルールにのっとらない形で行われることになった。

 【小沢氏】30日ルールって誰が作ったの。知らないんだろ、君は。

 ――2005年に。

 【小沢氏】法律で決まっているわけでもなんでもないでしょ、そんなもの。それはそれとして、君は日本国憲法を読んでいるか。天皇の行為は何て書いてある。それはどういう風に書いてある、憲法に。国事行為は、内閣の助言と承認で行われるんだよ。天皇陛下の行為は、国民が選んだ内閣の助言と承認で行われるんだよ、すべて。それが日本国憲法の理念であり、本旨なんだ。だから、何とかという宮内庁の役人がどうだこうだ言ったそうだけれども、全く日本国憲法、民主主義というものを理解していない人間の発言としか思えない。ちょっと私には信じられない。しかも内閣の一部局じゃないですか、政府の。一部局の一役人が内閣の方針、内閣の決定したことについて会見して、方針をどうだこうだと言うのは、日本国憲法の精神、理念を理解していない。民主主義を理解していないと同時に、もしどうしても反対なら、辞表を提出した後に言うべきだ。当たり前でしょう。役人だもん。そうでしょう。だからマスコミがそういうところを 全然理解せずに、役人の言う通りの発言を報道ばっかりしていてはいけません。ちゃんとよく憲法を読んで。そして、天皇陛下のお体がすぐれないと、体調がすぐれないというのならば、それよりも優位性の低い行事を、お休みになればいいことじゃないですか。そうでしょ、わかった?

 ――天皇陛下の健康上の問題にかかわらなければ、1か月ルールはよろしいとの認識か。

 【小沢氏】1か月ルールというのは、誰が作ったんですか、というんですよ。

 ――なくてもいいものだと。

 【小沢氏】なくてもいいものじゃない。それ、誰が作ったか調べてからもう一度質問しなさい。私は、何でもかんでもいいと言っているんじゃないんだよ。ルールを無視していいと言っているんじゃないよ。宮内庁の役人が作ったから、金科玉条で絶対だなんて、そんなばかな話あるかっていうことなんですよ。 天皇陛下ご自身に聞いてみたら、手違いで遅れたかもしれないけれども、会いましょうと、必ずそうおっしゃると思うよ。わかった?

 ――小沢幹事長が平野官房長官に、習副主席と天皇陛下の会見を要請したと報道されている。事実関係はどうか。また、天皇陛下の政治利用だという議論が起こっているが、どう考えるか。

 【小沢氏】君も少し、憲法をもう一度読み直しなさい。今、説明したじゃないですか。天皇陛下の国事行為、行動は、国民の代表である内閣、政府の助言と承認で行うことなんですよ。それじゃ、国事行為は全部、政治利用になっちゃうじゃない。諸君の理解がまったくおかしいんだよ、マスコミの。そうでしょ。何をするにしたって、天皇陛下は内閣の助言と承認でと、それは憲法にちゃんと書いてあるでしょうが。それを政治利用だといわれたら、天皇陛下は何も できないじゃない。じゃあ、内閣に何も助言も承認も求めないで、天皇陛下個人で行うの? そうじゃないでしょう。

 ――平野官房長官に要請したかどうかの事実関係だけ教えてほしい。

 【小沢氏】事実関係だけというなら、先の質問は勉強してから聞きなさい、もう少し。さっきも言ったけど、政府の決めることですから、私が、習副主席と天皇陛下を会見させるべきだとか、させるべきでないとかというようなことを言った事実はありません。

 ――明日予定されていた幹事長と習副主席の会談が中止になったそうだが、この経緯は。

 【小沢氏】予定していたわけではございません。ただ、会いたいという連絡は、あったそうですけれども。非常にお忙しい日程で、3日間で、いろんな方とお会いするでしょう。私は中国に行ってきたばかりですし、お忙しいだろうと思って、ご無理なさらんでもよろしいと。

(2009年12月14日21時26分  読売新聞)



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普天間飛行場移設問題

普天間移設問題で以下のようなニュースがあった。


普天間移設「首相は辺野古以外」と防衛相

北沢防衛相は12日夕、長野市内で開かれた自身の就任祝賀会であいさつし、沖縄の米軍普天間飛行場移設問題について、「鳩山首相が目指しているのは、日米で合意した(沖縄県名護市)辺野古に新しいものをつくりたくないという沖縄の人たちの思いを大切にした新しい案をつくることだろうと思う」と述べ、首相が 現行の移設案である辺野古の米軍キャンプ・シュワブ沿岸部以外の移設先検討も含めて現行案を見直すとの見通しを示した。

 その上で、米側との協議に入るのが望ましいとの考えを示した。

 北沢氏は辺野古への移設について、「沖縄の県議会や県民世論(の多数)は反対で、知事が埋め立て工事の手続きをしても、県議会が不信任案を出す。鳩山内閣がリスクを取って決断しても、工事に入れないという状況があるから、我々が悩んでいる一番の動きはここにある」と指摘した。
読売新聞




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天皇会見1か月前ルールと「法」の崩壊

時事通信より


「二度とあってほしくない」=陛下と中国副主席の会見設定で宮内庁長官

 天皇陛下と中国の習近平国家副主席との会見が通常の手続きを踏まずに決まったことについて、宮内庁の羽毛田信吾長官は11日、記者団に急きょ経緯を説明 し「誠に心苦しい思いで陛下に(会見を)お願いした。こういったことは二度とあってほしくないというのが、私の切なる願いだった」と述べ、強い不快感を示 した。
 羽毛田長官は「陛下の政治的利用につながるのではないかという懸念を持っているか」との質問に「大きく言えばそういうこと」と述べた。
 同長官によると、会見要請の打診が宮内庁にあったのは先月26日。陛下と外国要人との会見は1カ月前までに申請する慣行に反していたため、同庁は翌日、外務省に断る意向を伝えた。
 しかし、平野博文官房長官から今月7日、羽毛田長官に「ルールは理解するが、日中関係の重要性にかんがみてぜひお願いする」と電話があった。
 羽毛田長官は「陛下をお守りするためにつくられ、政府内で順守されてきたルール。国の大小とか政治的に重要な国かといったことにかかわらず、尊重して やってきた」と慣行を守るよう求めたが、10日夕にも「総理の指示を受けての要請」と電話があり、了承したという。(2009/12/12-01:06)


天皇の政治利用はもちろん大問題なんだけど、それ以外に、今の内閣は法治国家であるにもかかわらず「法=規則を守るという考えが希薄」という大問題があると思う。

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障害者を巡る竹原信一阿久根市長のブログについて

阿久根市長のブログでの発言が波紋を呼んでいる。(asahi.com

 

問題となった市長のブログは下記。

医師不足の原因は医師会(11/8)

医師不足が全国的な問題になっている。特に勤務医の不足は深刻だ。

医師が金儲けに走っている為だが、この体質を後押ししてきたのが医師会だった。

(中略)

勤務医師不足を解消する為に勤務医の給料を現在の1500万円程度から開業医(2500万円程度)に近づけるべきなどとの議論が出てきている。

しかしこんな事では問題は解決しない。医者業界の金持ちが増えるだけのこと。

 

医者を大量生産してしまえば問題は解決する。全ての医者に最高度の技術を求める必要はない。できてもいない。例えば昔、出産は産婆の仕事。高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果 擁護施設に行く子供が増えてしまった。

「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事」というのは間違いだ。個人的な欲でデタラメをするのはもっての外だが、センチメンタリズムで社会を作る責任を果たすことはできない。

社会は志を掲げ、意志を持って悲しみを引き受けなければならない。未来を作るために。

 

 

 

市長擁護派は部分だけ取り出して批判するのはおかしい、きちんとコンテクストを踏まえろ、という感じの主張をしているようだが、はっきり言ってそもそも市長のブログのコンテクストがよくわからないのだが。

 

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沖縄の密約と戦略性

沖縄核持ち込みの密約の調査を国が進めているらしい(朝日新聞  )が、まあ密約があるのはアメリカで公開されて以来周知の事実なので、重要なのは国が認めるという形式面にあるのだろう。

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スパコンへの出資と費用対効果の問題

スパコン開発への出資が実質止められた件で、このニュースで触れているわけではないが、いわゆる「費用対効果」の問題を論じている人が多いので少しコメントしておく。



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相対的貧困に意味はあるか

日本の相対的貧困率が政府主導で調べて発表された(毎日jp

長妻昭厚生労働相は20日、国民の貧困層の割合を示す指標である「相対的貧困率」が、06年時点で15.7%だったと発表した。日本政府として貧困率を 算出したのは初めて。経済協力開発機構(OECD)が報告した03年のデータで日本は加盟30カ国の中で、4番目に悪い27位の14.9%で、悪化してい る。日本の貧困が先進諸国で際立っていることが浮き彫りとなった。

最後から二文目まではデータだからまあいいけど、一番最後で猛烈な飛躍がある気がする。

大体、「相対的」貧困ってことは、周りに金持ちが多かったら、自分もきちんと暮せたとしても貧困という扱いになるわけで、別にさしたる問題ではないだろうし。

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「ハブ空港」をめぐる誤解

前原が羽田のハブ空港化を発言して波紋を呼んでいるが、どうもそもそもの語の意味が混乱しているように見えてならない。

「ハブ空港」というのは本来的には「ある地域内の航空網の乗り継ぎのための中継空港」ということである。例えば、アメリカで全部の空港に直行便を飛ばすわ けにもいかないので、シカゴをハブ空港にし、ボストンからシアトルに行きたいと思ったら、「ボストンーシカゴーシアトル」のようにシカゴを経由して飛ぶ。 その地域内の行き来は基本的にハブ空港経由で行うことになる。

一方、「ゲートウェイ空港」というのは「外からある地域に来た人を、その地域内の各地に送り出すための中継空港」を指す。例えば成田が東アジアへのゲート ウェイ空港だと言った場合には、アメリカから上海に旅行しようと思った人は、いったんアメリカから成田に行って、成田から上海への飛行機に乗り換える。ただし、この意味で「ハブ空港」が用いられることもあるようである。

さて、毎日新聞の社説を見てみると

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オバマのノーベル平和賞と核廃絶について

オバマがノーベル平和賞を受賞した。CNNではいろいろな受賞理由が書かれているが、日本では核廃絶の話がやたら取り上げられている。

さて、核廃絶の話といえばプラハでの演説なんだけど、演説全文(日本語訳)見てみてもオバマはそういう平和主義者なのか怪しく思える。

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オバマは国際協調主義なのか?

オバマ大統領が単独行動主義を批判して国際協調主義へのシフトを演説したらしい。

ただ、このニュースによると

オバマ大統領は、ブッシュ前政権の外交政策が国連を軽視した単独行動主義的であったと批判する一方、現在の米国の外交政策が国連を重視する国際協調主義 に変わったことを強調。米国一国だけでは問題を解決することができないことを指摘しながら、地球規模の課題への各国の責任分担を求めた。

確かにこれは単独行動主義ではないのだろうが、かといって国際協調主義なのかと言われると疑問が残る。

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立法府が行政府に乗っ取られる

民主党が、議員立法を原則禁止にするらしい(asahi.com

いや議員立法禁じたらますます官僚の作成した法案ばっかりになるでしょ。過去を振り返っても政府立法はほぼすべて官僚作で、議員立法で頑張って法律作ると官僚の言いなりにならなくて済む(例えば若いころの田中角栄)ってのは明らかじゃないのかな.

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法務大臣が法を守らない件

過去数人の法務大臣がそうだったけど、今回任命された千葉法務大臣も、死刑執行について慎重にしていくと発言している。(読売新聞


個人の信条として死刑廃止を訴えるのは自由だし、死刑廃止の法案を出そうとするのも自由なんだけど、なんで大臣の職務にまでそれを延長してしまうのか、という。

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鳩山の二酸化炭素25%削減と、国際社会における「倫理」

鳩山は、2020年に二酸化炭素90年比25%減を掲げているらしい。

いまだに日本に不利な90年比という基準を用いているのはさておき、この行動の意味がわからない。

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戦争体験者の死滅

戦争体験者が死亡し、戦争体験者がいなくなることは世間一般では「よくないこと」だとされているようだ。もちろん人が死ぬことはよくないことだが、逆に言うとそれ以上の意味で、つまりまさしくその人が戦争体験者であるがゆえに、よくない、ということは本当にできるのだろうか。

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民主党は人権弾圧を黙認する

岡田幹事長は、「民主党は結党以来、一貫して日中関係を重視してきた。鳩山由紀夫代表や小沢一郎代表代行を始めとする党幹部たちは各々の政治活動において常に日中関係重視の姿勢を示してきた」と述べ、政権交代が実現すれば日中関係はより一層発展すると強調した。同幹事長自身も年に1度は訪中しており、すでに15回の訪中歴があるという。

また、第2次大戦中のA級戦犯が祀られている靖国神社に日本の首相が公式参拝することに中国が強く反発している問題については、「A級戦犯は先の大戦の罪人だ。首相が公式参拝すべきではない」と述べ、チベット問題やウイグル問題については「中国国内の事情だ」とし、「中国への内政干渉は行うべきではない」との見解を示した。(翻訳・編集/NN)
Record Chine

靖国については、岡田の主張の疑問な点もあるが、まあ個人の信条として行きたくないのなら行かなきゃいいので、これは勝手にしなさいなのだが、問題はチベットの方

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赤坂プリンスホテルと日教組の問題

日教組と赤坂プリンスホテルの問題で、判決が出たんで毎日新聞が社説で取り上げてる。

で、社説で「集会・言論の自由」を相変わらず書き連ねているので、それは違うだろ、と。

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残虐な刑罰

岡田克敏がアゴラで、絞首刑という死刑の方法を見直す必要があるのではという主張をしている。(処刑の方法
実際死刑の方法というのはあまり議論されないが、した方がいいというのは私も賛成だが、彼の論はロジックがあまり通っていない気がする。

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政治において国民に求められる判断とはなにか

政治において求められる判断というのは、国益や人権の理念等の判断材料をもとにして、有限の資源をどのように配分するか、そしてどういう政策を実行するか、を合理的に考えるものである。

ここにおいて主体として立てられているのは一個人ではなく、あくまでも集団全体である。我々の判断も、自分自身の視野ではなく、「集団全体のことを考えるとどうなるか」という基準で判断されねばならない。

そして、自分自身の感情と、集団全体の合理性とはしばしば衝突する。たとえば、自分自身は税金を払うのは嫌だが、集団全体で見たら税金は明らかに必要である、などというのがそれである。このような場合には、我々は自分自身の感情に基づくのではなく、集団全体の利益を合理的に考えて決断を下さねばならない。この程度のことは分かっているという人は多いだろうが、この感情の問題は実はもっと根深い。

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民主党は独裁制への道を進むのか?

鳩山(由)が記者会見している。(izaニュース

細かく言いたいことはいくらでもあるんだけど(「長期政権がもたらしました政治不信」って言ってるけど、同じく長期政権のスウェーデンの人が聞いたらきっと怒るよ、とか)、一番気になったのは次の内容。

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非核三原則は言われているより限定的内容しか持たない

もともと佐藤栄作が言ったもので、「作らず、持たず、持ち込ませず」だが、その意味は、少なくとも佐藤自身の意図としては、かなり限定的なものであったように思う。なぜなら、彼は非核三原則を初めて言った1967年12月11日予算委員会

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国歌斉唱問題

上田清司知事は1日の県議会で、08年度の県立学校の卒業式で国歌斉唱時に起立しなかった教員について「式典のルールに従って模範を示さなければならない」とした上で、「日本の国旗が嫌いだとか、国歌が嫌いだというような教員はやめるしかないんじゃないか」と批判。(中略)

埼玉県高等学校教職員組合の関根達男書記長は「思想信条の押し付けと取られかねない。好き嫌いの問題ではない。不適当であり、撤回すべきだ」と話している。
毎日jp) 

また時事通信だと

これに対し、共産党県議団は「思想と良心の自由を定めた憲法19条の規定をないがしろにするもので、700万県民の代表にふさわしくない危険な発言だ」とし、撤回を求める談話を団長名で発表した。時事通信



とりあえず批判者に聞きたいのは、じゃあ憲法は強制労働禁じてるから、すべての雇用契約は無効になるんですか、って。

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景気はそんなに悪いのか!?

朝日新聞によると

「景気「足踏み」「悪化・下降」根強く 主要100社調査」

とのことだが、まずこれ調査の際の選択肢が変な気がする。

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脳死と臓器移植について

とりあえずこの問題は何点かの論点が混在していると思う。簡単に分けても「科学的観点から死はどう規定できるか」「社会的観点から死はどう規定すべきか」「臓器移植はいかなる場合にどのように認められるべきか」などの点がある。

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二酸化炭素削減目標05年比採用を評価する

二酸化炭素削減目標を05年比で採用したことについて、毎日新聞では「意志と理念が伝わらぬ」と酷評しているが、個人的にはアンフェアな90年比を離脱したことの意義を評価したい。

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世論調査と支持率のずさんさ

「「政権交代」波にのまれ 自民の支持率低迷 首相に挽回秘策は」(産経新聞) によると

衆院の任期満了が3カ月後に迫る中、フジテレビの「新報道2001」が毎週実施する首都圏世論調査(500人対象)で、民主党支持率が過去5年間で最高値を記録する一方、自民党支持率は長期低迷傾向に歯止めがかからない実態が浮き彫りになった。

とりあえず、世論調査毎週やって何の意味があるんだよ。最近はどこの社もそうだけど、世論調査しすぎ。遊んでるんじゃないのか、っていうぐらい。まさに「ゲーム感覚」

そしてどうせ3%上がった下がったとかそのぐらいで騒いでいるんだろうけど、回答500人、得られた支持率を30%として、信頼水準99%の信頼区間(誤差)は±5%もあるんだから、いったい何を騒いでいるんだかって話。(計算は一番下)

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石川旺『パロティングが招く危機』

パロティングそのものの構造はわりとうまく書けていると思うのだが、いかんせん筆者の政治的イデオロギーをベースに、(政治的に見て)一方の側のメディアの手法のみを批判するものだから、この本自体がパロティングを行っているように思えてならない。そしてそのおかげで、本書の論そのものが随所で矛盾するものになっている。

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クルーグマンの定額給付金批判の意味

経済学者のクルーグマンが定額給付金を「0点」と酷評したことがニュースになっている。(日経ネットasahi.com


最初このニュースを見たとき「え!?クルーグマンって財政出動論者じゃなかったっけ?」と思った。

だが、それは実際のクルーグマンの発言の文脈を見てみて納得した。

クルーグマンはこういう意味で定額給付金批判をしている。

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がん検診でがんが発症するのか!?

小谷野敦のブログより

がんは早期発見が大切とか、中川恵一先生そ知らぬ顔で書いていたけれど、肺がん検診を受けている人と受けていない人を抜き取り検査したら、受けている人のほうが死亡率高かったんだよ。だから肺がん検診やめたの。つまり、レントゲンの放射能で発症するってこと。私は十年以上レントゲン放射は浴びてません。

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環境問題で日本は「笑いもの」になるのか?

斉藤鉄夫環境相は12日の閣議後会見で、日本が2020年までにどの程度の温室効果ガス削減を目指すかという中期目標について、経団連の御手洗冨士夫会長が11日に日本経済に最も負担の少ない「4%増加」を支持したことを受け、「(4%増では)世界の笑いものになる」と反論した。さらに、「低炭素社会の先頭をいく技術を持った日本がまったく後ろ向きの目標を出すことは、日本の地位をおとしめる」との考えを改めて強調した。
 中期目標をめぐっては、検討委員会が提示した1990年比で4%増~25%減とする6案をもとに、国民から意見を聞いた上で政府が6月中に決定する。経済重視派は、大幅削減は家計や経済活動への負担が大きすぎるとし、現状の削減努力を継続する4%増案を支持。一方、環境保護派は待ったなしの温暖化防止のためには最も厳しい25%減の選択肢もやむをえないとしている。
 斉藤環境相は、(1)科学の要請(2)中国など途上国を含めた1つの国際的な枠組みづくり(3)日本の社会産業構造の変革を促す-の3つの観点から「野心的な中期目標が必要である」との見解を述べた。
産経ニュース

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憲法論議が封殺する「第三の道」

・改憲派の問題
改憲派の論拠としては、まず「憲法押しつけ論」が挙げられる。そもそも「押し付け」が何を意味しているかが論者によって大きく異なっている感が否めないので、一概に押しつけか否かは言いがたいが、とりあえず日本国憲法がGHQによる検閲下に制定されたものであり、その意味では日本国憲法は「押し付け」であろう。

だが、「押し付け」であるから何なのかと言っておきたい。押しつけであろうとなかろうと、憲法の規定する内容がよい内容ならばよい憲法だし、悪い内容ならば悪い憲法である。したがって、改憲を訴えるならば憲法の内容に関して取り上げるべきであり、制定過程を取り上げるのは関係のない問題を取り上げて議論を混乱させるだけである。

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迷走する憲法論議

憲法記念日なので、過去に別の場所で書いた文章をそのまま載せます。(これは2年前のもの)

・護憲派の限界
まず現行憲法九条の絶対平和主義の可能性について検討していく。
この絶対平和主義というのは、「侵略なんてされっこない」というような「平和ボケ」などではまったくなく、相手の侵略にたいしてはデモなどによる徹底した非暴力行動を行うものである。それはつまり、どんなに殴られても殴り返さない、横の人が殺されてもじっと耐えるという、ガンジーのような崇高な思想なのであり、それは多大な自己犠牲をともなうものなのである。

しかし、現実には護憲派はこのような犠牲を引き受けようとしているのであろうか。口先だけでならばいくらでも絶対平和主義などといえるが、実際は自衛隊とアメリカに守られており、そのリスクを負っていない。例えば、愛敬浩二は絶対平和主義を標榜するとしながらも、護憲の現実性を語るときに、完全な絶対平和主義のみを想定し、あらゆる軍隊を廃棄するよう考えることは、護憲の範囲を不当に狭く扱っているという。そして、護憲派がこのように絶対平和主義を主張し続けたからこそ、日本の軍拡はこの程度で済んでいるのだから、九条には価値があるという(『改憲問題』参照)。要するに、こうした「絶対平和主義者」は、「実現することはないのだから、何を言っても平気」という状況に陥っており、九条は自身の政府批判政治運動に都合がいいから残しておこう、といっているに過ぎない。これでは、現実に国民を、国家をどうするかといった問題を完全に放棄しており、憲法をただの政府批判の道具としかみなしていない。

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草彅剛と番組・CM降板

今回の草彅剛の件について、池田信夫は

SMAPの草彅剛氏が逮捕され、テレビ局は彼を番組やCMから外すなどの対応に大わらわだ。しかし彼の容疑は、深夜の誰もいない公園で裸になったことだけ。もちろんほめられたことではないが、誰かに向かって公然わいせつ行為を行なったわけではない。おそらく書類送検がせいぜいだろう。一般人なら、ちょっとした笑い話にすぎない。池田信夫blog「「自粛」という思考停止」

と述べている。これに続けて、「番組の内容と無関係な事件で放送を「自粛」する習慣」に対する批判が述べられている。

昭和天皇の件については過剰かもしれないが、今回は、特にCMについては、いささか疑問に思う。

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科学革命について 2~パラダイム前後の連続性の問題

過去の、誤っているとされた理論も、それは単純に誤りとして捨てられるべきではない。そうした「誤った」理論も、自然現象のかなりのところを適切にとらえている。

そして、そうした「誤った」理論の方がより直観的であり、それは日常に近いところではなお用いられているといえる。例えば、天動説は否定され地動説が正しいとされたが、日常ではなお「日が沈む」などという。また、熱は粒子運動であるとされカロリック(熱素)説は否定されたが、しかし日常では「熱が広がる」などのカロリック的用語法を用いている。

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森田健作知事の「無所属」は公職選挙法違反か!?

毎日新聞より

千葉県知事選で「完全無所属」を名乗りながら自民党支部代表を務めていたとして、県内の市民グループが15日、森田健作知事(59)を公職選挙法(虚偽事項の公表)違反などの容疑で千葉地検に告発状を提出した。地検は受理したかどうか明らかにしていない。

 告発したのは「森田健作氏を告発する会」(井村弘子代表)メンバーら854人。告発状によると、森田知事は東京都の自民党支部の代表者でありながら、知事選中に配った法定ビラで「政党より県民第一」などと記載し、身分について虚偽の事項を公にしたとしている。また、知事が代表を務める同党支部が05~06年、外国人などの持ち株が比率50%超の企業から980万円を受け取った政治資金規正法違反容疑も指摘しているという。

 森田知事側は「明日(16日)の会見でコメントする」としている。

何だよ「森田健作氏を告発する会」って、っていうツッコミはおいておくが、この告発はどうも変だと思う。

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科学革命について 1~客観性の問題

科学における人間的側面から考えてみよう。これについてはクーンとほぼ同じ考えである。つまり、パラダイムを究極的に選択するのは人間だが、それは恣意的であって構わないわけではく、基準を用いて決定せねばならない、科学革命におけるパラダイムの選択には、複数の基準が存在しているが、それはアルゴリズム的ではない、というものである。

パラダイムの究極的決定者が人間であること(クーンはこれを強調した)から、パラダイム選択の恣意性を唱える人は多い。だがむしろクーンの功績は、パラダイム決定は究極的には人間である「にもかかわらず」、科学は信頼に足る実績を構築できると論じた点であろう。

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核保有の議論について

読売新聞によると

 自民党の7日の役員連絡会で坂本剛二組織本部長が北朝鮮のミサイル発射に対し、日本も核保有すべきだと述べた。

 坂本氏は「向こう(北朝鮮)は核を保有している。日本も『核を保有する』と言ってもいいのではないか」と述べ、国連脱退にも言及したという。

 坂本氏はその後、記者団に、「日本が核武装も国連脱退もできないことはわかっている。ただ、北朝鮮に強く臨むため、例え話をした」と説明した。

 これに対し自民党の山崎拓・前副総裁は山崎派のパーティーで、「『日本も核武装して北朝鮮に対抗しよう』という意見が、公然と党の会議で言われることは非常に憂慮すべきだ。極端に言えば人類を破滅に導く議論だ」と強く批判した。

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北朝鮮のミサイルについて

北朝鮮が人工衛星という名目でミサイルの発射をしようとしているわけだが、まあ北朝鮮が計画通りにことを進められたなら、とりあえず今回はミサイルが日本に落ちることはないだろう。もし本気で日本を攻撃したいなら、何も騒がずにこっそりと小型爆弾を運びこむなりした方がはるかに効率的だからだ。

北朝鮮はわざわざ騒いで国際世論を引きつけようとしている。これは前の核の場合と同じで、「ミサイルを取りやめる代わりに金をよこせ」的な狙いだろう。

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経済学における「均衡」と熱力学・統計力学

アゴラを読んでいて少し気になったので。

安富歩氏が、経済学の「均衡」と熱力学の「平衡」を同一視する誤りが起きていると主張している。

まず熱力学の平衡について

物理学の平衡は大雑把に言うと、「マクロに運動が見られない」という意味だと言ってよかろう。(中略)

大切なことは、物理学の平衡は物質やエネルギーの出入りのない閉鎖系に関するもので、開放系には想定できない、という点である。たとえば生命は開放系であるから、一般に平衡状態を想定した議論は成り立たない。

非平衡開放系で何らかの量が止まっているように見える場合には「定常」状態という。「均衡概念の危険性について」

と書いている。これはその通りである。そしてそれに続けて

言うまでもないが、経済社会は生命と同じく非平衡開放系なので、そこで「価格」が止まっているとしたら、それは「平衡」ではなく「定常」である。

新古典派経済学の根本的な問題は、この定常状態に関して、閉鎖系の平衡統計力学風の議論を持ち込んでしまったことである。これはちょうど、人間の体温が一定であるのを見て「平衡」だと思い込み、平衡統計力学の手法を用いて身体の理論を作るのと同じ倒錯した行為である。

と書く。

だが私は「そもそも経済学は、熱力学の平衡の意味で「均衡」という語を用いているのか」という点には疑問である。

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政権交代しないと民主主義じゃない!?

民主党小沢代表の党パーティーにおける発言

小沢氏は「世界の中で日本は民主主義国だと日本人は思っているが、外国では、政権が一度も変わったことのない日本を民主主義国家だと思っているかどうかは疑問だ」と述べ、次期衆院選で民主党が勝利し、政権交代することの必要性を訴えた。イザニュース

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閉じゆく論壇

オピニオン雑誌が、「論座」に続いてついに「諸君」も休刊するらしい。(よんななニュース参照)


オピニオン雑誌、特に右とか左とか色の決まってるもの、は、大体において「内輪での盛り上がり」に終始している。要するに、彼らの世界だけで論が完結していて、その世界にいないものには説得力がまるでないような理論だてを行っているのである。

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ノーカット版中川大臣の記者会見(マスコミの情報操作は恐ろしい)

ニコニコ動画に中川の記者会見のノーカット版があった。

普通に記者と受け答えしてるんですが!

確かにあまりしゃきっとした顔ではないけど、別にコミュニケーションも正常だし。



質問を取り違えたという件についても、質問を全部起こすと

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市場の自動供給、の意味的問題

何らかの規制を廃して自由市場化を推し進める人が必ずいうことに「必要量は自由市場においてもきちんと供給される」というものである。

だが、この「必要量」とは一体何を指しているのだろうか。

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