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サイード『知識人とは何か』と、知識人の衰亡

端的に指摘すれば、本書を通っているドグマは

知識人はどんな場合にも、二つの選択肢しかない。すなわち、弱者の側、満足に代弁=表象されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか。(p61~62)

というものだ。サイードがとるのはもちろん前者である。そして、彼によれば、知識人というものは

安易な公式見解や規制の紋切り型表現をこばむ人間であり、なかんずく権力の側にある者や伝統の側にある者が語ったり、おこなったりしていることを検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である。(p49)

であるという。そして、知識人は「権力に対して真実を語ること」(第5章表題)をしなければならないのだという。

彼の指摘は半分は正しい。正しい半分というのは、知識人は「検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である」べきであり、「真実を語る」べきであるということに対してである。正しくない半分というのは、批判をしたり真実を語る対象が一方に定められている点である。知識人は、相手が権力者であろうと弱者であろうと、要するに誰であろうと、無批判な追従はすべきでないし、自身の思惟に基づいて真実を語るべきである。

サイードの論の根本的な問題点は、

「権力・伝統=力を持つ者=悪/マイノリティ=弱者=善」という、ステレオタイプな二項対立に固執してしまっている点にある。任意の議題に対して、権力サイドの主張が正しいか、それとも弱者サイドの主張が正しいかは、それは実際に双方の意見を聞いて、きちんと考えた上で下される結論のはずである。すなわち、権力サイドの意見も弱者サイドの意見もきちんと聞いた上でならば、知識人はいかなる結論をも下しうるわけであり、そこでたまたま権力サイドの主張の方が妥当性が高いと判断したところで、それはなんら問題ではない。

ところが、サイードは、双方の意見を聞いて自身の見解を出す前に、「先行して」弱者サイドの主張をそのまま自分の意見にしなければならないというのだ。

こうした状況の中で知識人が、弱い者、表象=代弁されない者たちと同じ側にたつことは、わたしにとっては疑問の余地のないことである(p49)

さらに彼は、「政府の政策に対して批判者たれということだけではない」という。つまり政府への批判者であることは驚くべきことに前提なのだ。

そして、彼に言わせれば、知識人が権力サイドの主張の方に妥当性を認めることは

知識人個人(中略)は大衆の意向に迎合して、連帯と、国家への忠誠と、国粋主義をあおる(p61)

勝利者は支配者に都合のよい安定状態を維持する側にまわる(p65)

支配的な規範に協調する(p67)

現状の社会そのものにどっぷりと浸かり、そこで栄耀栄華の暮らしを送り、反抗とか異議申し立てだのという意識にとりつかれることもない人々、いうなればイエスマン(p87)

ということなのだと口を汚くして力説する。要するに、権力サイドの主張を認めるというのは、権力に利益目的ないし心の安住のために無批判に迎合し堕落した人間になることと同義なのだ。

もちろんこれは成立しない。すでに記したように、権力サイドの主張の方に妥当性を認めるのは、それが権力者側であって力に目がくらんだのではなく、純粋な思惟を経てその結果権力サイドの主張の方を支持する可能性も十分にあるからだ。それを「権力サイド支持=権力に目がくらんだ」としか見れないのは偏狭なステレオタイプである。公社の可能性を否定するためには「権力サイドの主張は常に過っている」を前提にしなければならないが、これもまた悪質なステレオタイプであるのは言うまでもない。

結局のところ、サイードは、知識人はきちんとした思惟を行って主張をせねばならない、と正しいことを言っていながら、その言を裏切ってしまうのである。知識人はこういう主張(弱者サイドが正しいのだという主張)をせねばならないというのを、思惟の前に与えてしまっているのだから。これほど思考の貧困な知識人もあるまい。

以下は推測だが、サイードは、力によって目を曇らされない限り、思考力ある人間ならば誰しも自分と同じ結論に達し、同じ主張を行う、と信じ切っているのではなかろうか。だから、自分と相反する主張を行うのは権力に迎合しているからであり、そうした誘惑を断ち切れば、自分とおなじ主張へと達すると頭から信じて疑わないようだ。

だからこそ、彼は湾岸戦争について以下のようにためらいもなく言う。

忘れられたことを発掘し、否定されたものにつながりをつけ、戦争と、それに付随する殺戮という目標を回避できたであろうべつの選択肢をしめすことこそ、当時、知識人が果たすべき責務であったのだ。(p48)

サイードがもともと湾岸戦争に批判的であることは、「ブッシュ政権の悪辣な手口」(p147)と記していることからもわかる。彼が何らかの思惟を経て湾岸戦争に批判的な見解を抱くのは自由である。しかし問題は、彼以外の知識人もまた、彼と同様の見解を抱かねばならないという点にある。しかもそれは「知識人の責務」なのだ!自分と同じ主張を行うことが「責務」であり、それに相対する主張を行うのは「迎合」だと言い切る、その傲慢さにはもはや呆れるしかない。

結局、サイードが本書で一生懸命行っていることは、自分のような政治的立場こそが理想的知識人であり、自分に相対するような知識人は悪魔なのだ、という刷り込みである。「自分こそが弱者であり、常に苦労を強いられるものであり、苦痛に耐えしのぶものである、だから皆さん私に味方しなさい」、美辞麗句を取り払って見ればそこには剥き出しのエゴイズムしか残されない。

さらに根幹の問題へ移ろう。こうした知識人の最大の問題点は、自分たちのような「反=権力」「反=政府」の思想が知識人界においては圧倒的多数を占め、主流化し、力を握るようになっているにもかかわらず、その力の存在をひた隠しにし、自分たちこそは少数派、弱者であると言いまわっている点にある。今日のように、警察が権力批判者を刑務所にぶち込むことなど考えられない先進国では、知識人にとっての「権力」というのは、まさしく知識人の世界において自分の居場所をどれだけ安定させられるか、という点にかかってくる。そして、今日の知識人界がまさに「反=政府」で主流をなしている以上、まさしく「反=政府」的なサイドこそが権力サイドなのである。

実際、政府の肩をもつような主張を行えば、知識人界からは「保守反動の右翼、権力者のいいなり、危険人物」というレッテルを貼られる状況にあるのが現実なのだ。そうした右翼的な知識人は今日の思想界では追い出されてしまい居場所を失う。たとえば、歴史学界の中心的位置を占める雑誌である『史学雑誌』の1996年の「回顧と展望」号には、「つくる会」のような右派的な歴史学的主張に対して

昨年の朝鮮近現代史をめぐる動向の中では、いわゆる「自由主義史観」の宣伝が看過できない問題の一つである。こうした動きは過去にも何度も繰り返されてきたが、今回はマスコミを巧みに利用しつつ社会的影響力の強い「人材」を動員して「国民的」運動として展開せんとしているところが特徴的である。歴史学からの批判はすでに藤原彰・森田俊男編『近現代史の真実は何か』(大月書店)などとして提出されているが、ただこうした批判に彼等は何らの痛痒も感じないであろうから、むしろ我々としては、何故彼等の主張が相当数の日本人に共感をもって受け入れられているのかを考え、歴史研究がその機能を十全に発揮しうるよう研鑽を積む好機として積極的に捉えたほうが生産的だと思われる。(『史学雑誌 1996年第5号』p256)

と記している。つまり、こうした右派的主張は誤りであることが「前提」となっており、そうした右派的主張は史学雑誌においては行い得ない、つまり歴史学界ではそうした右派的主張は門前払いを食わされて抹殺されているという状況にあるのである。

「反=政府」の知識人たちは、自分たちが権力の立場にいながらその事実に無自覚で、逆に他のものを「権力の手先」として非難する。権力の側の主張を行うなとは言わない(これはすでに記した通り)が、自ら権力の座にいながら、他人を「権力の手先」と罵るのは愚劣極まりない。こうした知識人が行っているのは、権力から発生する負の側面を、政府の側へ押しかぶせて投射して、それによって自分たちの持つ権力から発生した負の側面に目をつむって快楽に浸るという事態である。そうした活動に知識人が転落しているということ自体が、知識人の衰亡を示している。

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