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ネグリ=ハート『マルチチュード』の宗教的性格

・全体

ネグリ=ハートの論の大きな問題点は、自分の論について論証するのではなく断言するにとどまっているという点である。彼らは、<帝国>が世界を支配していることを前提とし、その視点に基づいて世界を分析する。この視点を<帝国>的世界観と呼ぶならば、本書は<帝国>的世界観というメガネを通してしか世界を眺めていないと言える。このメガネを一度かけてしまったならば、もはやそのようにしか世界を眺めることが出来ないだろう。例えて言えば、世界はすべて聖書の記述に基づいて説明可能であり(実際かなりの部分が、そう信じている限り可能だろう)、したがって聖書に基づいて人々は行動すべきだというキリスト教的世界観と同じである。<帝国>的世界観は、信じるか信じないかの宗教なのである。さらに問題なのは、キリスト教的世界観は、それが普遍的概念であり国際政治をそれでもって説明しようなどというものは誰もいないが、<帝国>的世界観はそれがいるということだ。

少し詳しく説明しよう。確かに本書では具体的な国際政治の事例が多数出ている。しかしこれは筆者の<帝国>的世界観の論拠足りえない。<帝国>は「概念」(『<帝国>』p7)である。したがって、ネグリ=ハートがすべきなのは、現実の国際政治の事例と概念(ネグリ=ハートならば<帝国>)との間にはしごを掛けることである。つまり、国際政治の事例が、なぜほかの概念ではなくその概念(<帝国>)において説明されねばならないのか、その事例の原因は、無数に考えられる他の構造ではなくその構造(<帝国>)なのか、を示す必要がある。また、そうしないと、<帝国>のある要素部分の弊害を持って、他の<帝国>の要素の問題性を示すことは出来ない。

ところが、ネグリ=ハートは<帝国>的世界観が染み付いているために、それ以外の見方など頭にも思い浮かばないようだ。この点がもっとも顕著に現れてしまっているのがハンチントン批判(上p75~79)の部分だろう。ハンチントンの論もまた、「文明の衝突」的世界観を自明の前提として世界を眺め、それを普遍化しているという点で致命的欠陥を抱えているといえる。そういう意味では、ハンチントンの論自体は支持できない。しかし、ネグリ=ハートの批判の問題点は、彼らの世界観を自明の前提とした上で、別の世界観を批判するという構図を取っている点である。これは、キリスト教を自明の前提とした上で、イスラム教を「馬鹿げている」とこき下ろすに等しい。ネグリ=ハートがハンチントンを批判すればするほど、ネグリ=ハートの理論の閉鎖性が際立っている。

・<帝国>

ネグリ=ハートは<帝国>について以下のように述べる。

私たちの基本的な前提はこうなる。すなわち、主権が新たな形態をとるようになったということ、しかも、この新たな形態は、単一の支配論理の下に統合された一連の国家的(ナショナル)かつ超国家的(スプラナショナル)な組織体からなるということ、これである。この新しいグローバルな主権形態こそ、私たちが<帝国>と呼ぶものにほかならない(『<帝国>』p4)

常識的に考える限り、<帝国>が世界を支配しているということは彼らの論の結論として出てこなければならない。ところが、彼らは自らが立証すべき論を前提として一方的に正しいものとしてしまい、それを前提に世界を眺めている。だから彼らの論は宗教の領域を免れない。

彼らは<帝国>を以下のように定義する。

だからこそまず第一に、<帝国>という概念は、空間的な全体性を包み込む体制、あるいは「文明化された」世界全体をじっさいに支配する体制を措定しているのである(『<帝国>』p7)

しかし、支配するものを<帝国>と措呈してしまったならば、「<帝国>は世界を支配している」と騒ぎ立てるのはトートロジーでしかない。そして曖昧な形でしか<帝国>を規定しないならば、必然的に<帝国>がいわばブラックボックス状態に陥り、そこに自分たちの都合の悪いものをなんでも放り込める状態になってしまっている。

彼らの定義に従えば、<帝国>は概念である。したがって、<帝国>が支配したり搾取したりするというのはあからさまにナンセンスである。なぜなら、支配したり搾取したりするのは実態物であり、概念とは次元を異にするものだからである。ところが彼らは<帝国>を概念だとしておきながら、それを実体的に取り扱い、読者に<帝国>をことさらに脅威であるかのように刷り込んでいる。もっとも、<帝国>などという名づけ自体が、読者への恐怖感の刷り込みに違いないのだが。

また、アメリカや多国籍企業など、<帝国>として非難された存在が起こしている様々な問題が本書では取り上げられている。しかし、問題はなぜ<帝国>の一要素が有しているに過ぎないものの特質が、他の<帝国>の要素にまで当てはまるといえるのか、という点である。アメリカなり多国籍企業なりは<帝国>の要素の一つであり、それらの行動が大きな問題を有していることを認めたとしても、そこから他の<帝国>の要素がどうなっているかは何も導けない。したがって、「アメリカはいけない」から「<帝国>はいけない」に論理を持ち込むことはできず、アメリカの悪性をもってして<帝国>の悪性を示したことにはならず、あるものが<帝国>であるからといってそれが非難に値するかどうかも何もわからない。

・マルチチュード

彼らは、マルチチュードは

あらゆる差異を自由かつ対等に表現することのできる発展的で開かれたネットワーク、言いかえれば、出会いの手段を提供し、私たちが共に働き生きることを可能にするネットワーク(上p19)

だというが、正確なところは不明確である。とりあえず、「マルチチュードは一群の特異性からな」り(上p171)、「特異性同士が共有するものにもとづいて行動する」(上p172)という点から、マルチチュードは「個々の差異を尊重しつつ、自発的に共通の目的を目指すネットワーク」としておこう。

マルチチュードは明らかに、インターネットにおいてもっともなしうるだろうが、本書においてインターネットについての記述は少ない。一番詳しいのは、オープンソースをマルチチュードのアナロジーとして引いている部分だろう(下p236~237)。しかしオープンソースから、マルチチュードや民主主義を擁護するのは難しいだろう。オープンソースの場合、改良されるのがコードであるため、「良」の方向性が明確化されるのに対し、社会の場合は「何がよい社会か」という問い自体が対立し続ける。これはウィキペディアの編集合戦を考えればわかるだろう。特に編集合戦が起こるのが政治や経済といった社会的問題であることは、オープンソース形式を社会の問題に導入することの問題性を浮き彫りにしている。また、インターネットをマルチチュードとしてみるならば、例えばブログ炎上や祭りのような事態についても、マルチチュードの発現だとして擁護するのだろうか。そのような危険な発現は認めないという回答があるかもしれないが、マルチチュードの発現の方向性を先に決めてしまうならば、それは自発性と多元性を擁護するマルチチュードとしては名ばかりのものとなるだろう。

次に、マルチチュードにおいては「管理を行う中央は存在せず、すべての節点(ノード)は自由に自己表現を行う」(下p60)とあり、これが、個人が支配されないことを擁護する。しかし、ここでいう自由や自発は、あくまでも定義上でしか存在し得ない。個々人の意志は社会との関わり合いにおいて作られるものである以上、実際にはマルチチュードにおいてさえ自分以外による支配やコントロールを逃れることは出来ない。いや、形式的に支配をなくすだけでも十分意味はある、と言うかもしれないが、そもそもネグリ=ハートが批判する新自由主義もまた「形式的」には非支配と対等性を認めている。

真の民主主義は、「多数による全員の支配」を脱して「全員による全員の支配」を行うことだとしている。だが、そうだとするとネグリ=ハートが真の民主主義の萌芽として認めるマルチチュードなどの運動は、真の民主主義をなす上ではあまり役に立たないだろう。なぜなら、マルチチュードなどの運動は参加するかしないかをまず自由に決め、それから全員として行動するが、社会の場合は先に全員の中に組み込まれてしまうからだ。社会的決定とは、不参加が認められない状況で下される決定であるため、マルチチュードを適用させることは出来ない。

また、マルチチュードは多様性を擁護するため、「マルチチュードや民主主義に敵対する思想」もまた多様性の一つとして擁護されねばならない。ところが、こうした思想が擁護されている限り、全員が共通の目的に達する状況にはなりえないため、民主主義による決定は下せない。それ以前に、ネグリ=ハートによるアメリカなり新自由主義なりへの批判も空転に終わる。「全員」の中には、アメリカなり新自由主義者なりが当然含まれており、彼らが反対するからだ。無論、「真の民主主義は全員による支配を行う。ただし、民主主義に批判的なものはこの限りではない」とすれば一応の解決は出来る。しかし、これは「政府は言論に自由を保障する。しかし、保証者たる政府を批判するものについてはこの限りではない」としている状況が、果たして言論の自由が守られていると言えるのか考えてみれば、民主主義批判を排除した民主主義は、まったくもって民主主義的であるとはいえないだろう。

では、ネグリ=ハートは、こうした事態にどう対処するのか。彼らは、自分の言を裏切り、敵を抑圧することで問題を解消しようとする。

まず彼らは戦争を容認する。「民主主義が暴力を用いるのは政治的目標を追求する手段である場合に限られる」(下p240)、「暴力を防衛のためにしか用いない」(下p241)、だから暴力を振るってもよいのだという。要するに「我々は暴力など振るいたくないのだが、敵があまりにも悪質なので、やむを得ず暴力を防衛のため用います」と言っているに等しい。すべての戦争はこうやって始まるものだ。ネグリ=ハートもこの例に漏れず、他の人々と一緒になって戦争に加担している。彼らによると、他の正戦論は実際には「道徳的基礎に基づいて正当化できるとみなされた軍事攻撃にほかならず、したがって民主的暴力の防衛的なあり方とはまったく無縁」だという(下p244)。民主主義を絶対的に崇拝するという前提に立つ限り、他の正義はせいぜい価値観止まりになるだろうし、絶対的対象の民主主義と価値観止まりの正義とは明確な差を設けられるだろう。だがここでやっているのは、結局自分の信じる正義(民主主義)とそうでない正義とをランク分けして差別化しているに過ぎない。そして己の正義をこのように信じたものが再び十字軍を行うのだ。

次に「愛」が飛び出してくる。「愛」というと響きはいいが、要するに「対象物と自己を同一化させ、対象物のために自己を犠牲にする精神」のことである。ネグリ=ハートはマルチチュードなり<共>なりへの愛を説くわけだが(p253~255)、オブラートを外して見れば、マルチチュードや<共>のために個人の思いは我慢しろ、という地平に帰着する。さらに「愛は(中略)建設に基盤になる」(p255)ということで、人々は愛をもたなければいけないことになってしまう。要するにマルチチュードや<共>のために犠牲を払うことを強制する抑圧装置であろう。

(追記:本書から得られる知見としては「理性により即断・実行せずに、対話を繰り返して成熟を待て」というのと、「国境を廃しても独裁にしかならない」というものぐらいだろうが、前者はオークショットが『政治における合理主義』ですでに論じているし、後者はヤスパースが『歴史の起源と目標』でやはりすでに論じていることだ)

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