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政治において「失言」は成立するか?

大臣が失言して辞職というのはよくある流れだ。だが、「失言」というものが何かを掘り崩して考えてみれば、この流れはそれほど自明のものではないように思われる。

まず、「失言」というのは、単に言葉が汚いのとは違う。「バカ」とか「豚」とかいうのは確かに品性を欠くし、感情をあおるだけになるから、大臣としては差し控えるべき発言だろうが、それ自体が辞任に値するとは考えにくい。ほとんどの場合、品性を欠く発言も、言い方を変えればごく普通の発言にできるのだから、せいぜい注意を受ければ済む程度の瑕疵である。あとは、大臣は本職できちんと働けばよいのだし、そもそもそちらこそが評価されるべきものなのだし。

だから、「失言」による辞職は、単に表現技法上の問題によるものではないと考えられる。

だとすると、「失言」はその発言内容に対してかかってくるものである。しかし、ある発言がある主張を行ったとすれば、その主張と相反する主張をする人間から見れば「間違った主張をした」と見るのは必然である。ゆえに、「主張内容が誤っている」ということを論拠に辞職を求められては、大臣は何も発言できない。

そもそも、辞職を求める側(発言に対して抗議とかを行う側)は、抗議ではなくてその主張内容が誤っていると反論すればよいのである。反論するのではなく、「そのような主張は行ってはならない」と抗議して上から押さえつけてしまうことは、正常な討議活動を妨げる効果しか生まないだろう。

以上より、大臣がいわゆる「失言」を行って辞職という流れは、あまり自然なものだとは思われない。

特に、「失言」は発言内容にたいして言われることが多いように見受けられるが、それは「それは失言だ!」と非難するものと主張内容が異なっているということしか意味しておらず、自分と主張内容が異なるから辞めろというのは筋が通らない。だが現実で起きているのは、口の大きい者が世論を動かして、自分の主張内容と異なるものを排除するという構造なのだろうが。

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