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帰納的推測の擁護

帰納的推測への批判としてはヒュームの論や、彼を援用してのポパーの論が有名である。

まず、帰納的推測が正しいことを推測する論拠が、「これまで帰納的推測が正しかったのだから、これからも正しいだろう」という帰納的推測に基づいているとして、帰納的推測を批判する。しかし、この批判は妥当だろうか。

世界が斉一的であるとすれば、帰納的推測は常に成立し、過去の事例もすべて帰納的に振舞う。一方、世界が斉一的でない、カオス的な状況ならば、確かに帰納的推測は成立しないが、代わりに今まで帰納的推測が成立してきた可能性は限りなくゼロに近い。世界がカオス的であり、かつ今までのデータが帰納的に振舞うということは、カオスであるにもかかわらず偶然にすべて帰納的になったということだからである。そのため、逆確率の考えから、世界が斉一的であると推測するのは妥当である。

世界は、今まで斉一的に振舞ってきたが、これからカオス的になるのだ、と言うかもしれない。なるほど、そうだとすれば今まで帰納的に振舞っており、これからカオスになることは説明できる。しかし、世界が斉一的な状況からカオス的な状況に最初に変わるタイミングはいつでもよく、従ってはるか未来までの長い時間があるうち、帰納的推測が行われた近い将来において斉一的な状況からカオス的な状況に変わる可能性はゼロに近い。ゆえに、近い将来に対する帰納的推測はやはり妥当性を有する。

次に、グルーのパラドックスを検討しよう。グルーのパラドックスとは、時刻tまでに観察されたすべてのエメラルドはグリーンであったことから導かれる推測として、「すべてのエメラルドはグリーンである」という帰納的推測と、「すべてのエメラルドはグルー(時刻tまではグリーンであり、時刻t以降はブルーである、という意味の単語)である」という帰納的推測とが、同様に確からしくなる、というものである。

確かに、過去観察されたエメラルドはすべて、グリーンでもありグルーでもある。しかし、グルーとはいかにも不自然な単語ではないか、との反論に、グルーのパラドックスの提唱者グッドマンは以下のように反論する。時刻tまではブルーであり、時刻t以降はグリーンであることを意味する単語をブリーンとする。すると、グリーンは「時刻tまではグルーであり、時刻t以降はブリーンである」と定義しなおせる。このように、グリーンもまた同様に不自然な単語足りえるのである。グルーとグリーンの差は、我々がどのような言語をこれまで用いてきたかの差に過ぎない。

グッドマンは、結局過去用いられた推測の性質を根拠として、グリーンを用いた推測の方を擁護する。確かにこれはこれで一つの妥当な回答ではあるが、こうした過去の用法に訴えない回答もあると思われる。

言語は、同一物を指示し続けるものである。なぜなら、言語とは考えを伝えるための道具であり、同一物を指し示し続けないならば、考えの伝達が出来ないからである。ところが、グルーは同一物を指し示せない。時刻t以前にグルーであったエメラルドを完全にそのまま時刻t以降に転送させられたとすると、そのエメラルドはブリーンと叙述される。したがって、グルーは言語として不自然な用法なのである。「時刻tまではグリーンであり、時刻t以降はブルーである」が不自然なのは、グリーンやブルーという「単語」の問題ではなくて、グリーンやブルーによって指示されている「様態」の問題なのだ。だから、これまで用いてきた言語次第だ、とは言えない。

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