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丸山真男「「現実」主義の陥穽」(『現代政治の思想と行動』収録)と、日本思想界の末路

まず彼は、「現実の所与性」を問題にする。現実は日々作られていくものなのに、現実を与えられたものだとして既成事実に屈伏している、としてこうした現実の側面を批判している。

これは、「既成事実への屈服」が何を意味するのかによる。「既成事実への屈服」というのが、現実に存在するものだからそれが「正しいものなのだ」という主張であるとするならば、確かにそれへの批判は正しい。ただしこれは「自然主義の誤謬」として昔から知られているものであるのだが。

しかし、「既成事実への屈服」というのが、望ましい状況とは言えない現実をとりあえず現実として認めた上で、そこからどのようにしてよい状態を目指そうかと模索する姿勢を指すとするならば、丸山の批判は妥当なものとは言えないだろう。彼の論は、都合の悪い現実は現実として認めるな、ということになる。だが、都合が悪いからといって現実を認めず、「これは現実が今のようになっているのが間違っているのだ」と言っていたら、政治の論議など行うことができない。政治というものは、現実に存在する「よくないこと」に対してどのように対処するか、という実践活動であり、その活動の対象である「問題」が、その都合の悪さゆえに消滅して考えてよいならば、そもそも政治論議など成立しないだろう。

次に彼は、現実と呼ばれるものが実は現実の一面しか見ていないという点を指摘する。確かにこの傾向は多くみられるものであり、その点ではこの指摘は正しい。しかし、これは現実を正しく認識できていないという形での批判である以上、「現実として取り上げられているものが実は現実ではない」という、現実として挙げられた特定事実への批判であって、現実主義そのものへの批判としては成立しない。

彼は続けて、現実というものが、支配階級にとっての都合のよい現実でしかない、と批判する。だが、この主張は反証可能性を有するか疑問である。任意の現実について、支配階級にとって都合のいい側面と悪い側面があるはずであり、ゆえに「都合のいい現実でしかない」という批判は永遠に成立し続けるが、その批判に意味があるとは到底思えない。この手の批判は、実証不可能な陰謀論に転落するからである。

彼は西欧である事柄が推奨されているからと言って、それを論拠に日本でもそうすべきという結論は出ないと論ずる。これについては、その推奨されている「事柄」が内政にかかわるものである限り正しい。ある内政に関する事柄が正しいかどうかは、諸外国での人気によっては規定されず、まさしくその事柄自体を分析することによってのみ論ずることができる。だから、諸外国での人気を取り上げることは「関係ないことを取り上げて議論を混乱させている」がゆえに批判される。

しかし、国際政治に関する事柄になってくると話は違う。なぜなら、国際政治はまさしく他国との関係の中で政策を決めるものであるがゆえに、他国の行動は自国の国際的政策を決定する際の「関係ないこと」では全くないからである。むしろ他国の姿勢が自国の政策に考慮されるのは当然のことといえよう。そして、軍備の問題は国際政治的問題である以上、外国の行動に影響を受けるのは当然のことである。

むしろ、「外国の行動に隷従するな」というのは、丸山への批判として機能するだろう。彼は、ドイツやフランスで国民が再軍備反対の声を上げていることを取り上げ、だから日本国民も再軍備に反対しようと暗に呼び掛けている。だが、再軍備するかしないかは国際政治の問題だから諸外国の政策に影響されるが、再軍備反対の声を上げるか上げないかは純粋に国内政治の問題であり、したがって諸外国でどのような事態が起きているかはまったく関係がない。だから、諸外国で再軍備反対の声が上がっているからと言って、日本でも同じことをすべき論拠にはまったくならない。

丸山は、過去に争点になった問題を忘れ去ることを批判し、常に以前の問題にも振り返る必要があるという。確かにこれはその通りである。一度結論が出たからと言って、その問題が重要でなくなるというわけではない。

しかし、重要なのはその論じ方であろう。実際に採用された側の選択肢については、メリットもデメリットもともに顕在化される。しかし、採用されてない選択肢については、そのメリットのみに着目され美化されるきらいがある。特に、「履行不可能な理想」を対案として設置してしまえば、現実にとられる行動には必ずデメリットがあるのに対し、対案がユートピア的であるため、現実でどのような選択肢を取ろうとも、常にその選択肢を批判することができてしまう。だがこれに意味がないのは言うまでもない。だから、現実に選択されていない選択肢を考える場合には、常に「現実では得られているが、その選択肢の場合に得られていないもの」を頭に置く必要があるのである。

彼は、知識人は現実に妥協して、自分の理論を現実に歩み寄らせてしまう傾向があることを指摘し、これを批判している。

だがこの批判は妥当ではない。知識人の持つ「論」がどのようなものかによって分類し、それぞれで再反論をしておこう。

第一に、もしその理論が、「社会はこのように動く」などといった事実に関するものであるならば、現実への歩み寄りは当然の行動である。彼の論は、現実によって反証されたのだから、それにともなって彼の論は修正されるのである。

第二に、その理論が「こういう法律を作るべき」「人はこのようにあるべき」のような規範に関するものであるとしよう。しかし規範というものは、常に「これこれの状況において」という但し書きが暗黙の前提として滑り込まれている。したがって、以前の状況では「Aであるべき」であったとしても、状況が変化してしまえば「Aであるべき」とは言えなくなってしまう。ゆえに、「今」何をすべきか、という問題提起をされたならば、今がどのような状況にあるのかを考慮に入れなければ、なんら有効性のある規範的論を打ち出せないことは明らかである。そのため、現実の状況の変化に応じて自論を変化させていくのもまた当然といえよう。

また彼は、国民世論にゆだねよう、という知識人の言に懐疑的である。確かにこれはその通りだと思う。彼はメディアが甚だしく一方的である状況では、国民の判断は正しく行えないとする。これもその通りだが、少なくとも今の時点で、メディアの主力を左派系が握っているという点を鑑みるならば、おそらく彼の指摘は彼の意図とは逆向きに働くだろう。

理想主義の問題点は、現実を拒絶することで自分をユートピア的地平において現実的対応を批判する点にある。我々は理想的可能世界における政策を論じているのではなく、現実世界の政策を論じているのだから、理想的現実において成立する政策などを求めてはいない。無論理想は人間に必要なものだが、それは個人で勝手にやってもらいたい。夢想で政治という集団的活動を左右されては困るのだ。夢想によるデメリットを全員に押し付けるべきではない。そして丸山は政治という集団的活動についての理論を論じているのだから、そうした理論についてはまさに現実主義こそが必要なのだと言っておくべきだろう。

丸山の論は基本的に、戦前のファシズムの脅威に訴えることと、現実への「妥協」「屈服」といった用語で印象操作することで成立している。そして、この程度の浅い理論で戦後日本のスターとなれることに、日本思想界の貧困性が表れているのではなかろうか。

いや、彼がこれを執筆したのは戦後間もない状況だからということで、こうした問題を大目に見ることは出来る。だが、戦後50年以上経っている今でもなお、これと似たような主張を繰り返す知識人が多いということに対してはもはや絶望するしかない。

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