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渋谷秀樹『憲法への招待』(下)~通俗憲法書批判1

5 外国人にはなぜ参政権がないのか

まず本書では、以下のように述べて、外国人参政権は認められるとする。

地域への事実上の帰属関係がありさえすれば、国籍がなくても、地方参政権を認めることを憲法は禁止していない、つまり法律でそれを認めることができると行ったのです。

(中略)つまり、「ある地域に住む国籍保有者+ある地域の居住者」→「住民」→地方参政権、という図式がそこでは成り立つからです。そして、この論理は、国政レベルでも地方政治レベルでも質的な違いはないはずです。(p40~41)

憲法上、地方自治体の外国人参政権を認めることができるという点については同意してもいい。しかし、そのことは、外国人参政権を認めるべきだということをいささかも意味しない。

なお、国政への参政権は認められない。これは筆者自身が引用した判決でいっているではないか。ところが筆者は、

(前略)判決の論理を貫徹すると(中略)地方参政権は否定されるはずです。

ところが、最高裁はそうは言いません。(p40)

と言って、論理の貫徹とやらを行って国政レベルでも認められると言い張る。だが、論理を貫徹すると地方参政権も否定されるのなら、地方参政権が否定されるという結論を導いてもいいはずである。筆者が論理的に見て判決が矛盾していると思うのならば、そのような判決は引用すべきでない。だが筆者が行うのは、矛盾した判決を都合よく解釈し、「最高裁判決」という威光を借りるという行為だ。自己都合的にしか判決を用いないのなら、最初から判決を持論のサポートとして用いるべきではない。

さらに、公務就任権についても、以下のように述べて外国人にも一定程度認められるべきだとする。

「国籍がないから「火消し」になれない」というのは法律の名を借りた形式論で、一般市民の常識から決定的にずれた議論だと思いますが、いかがでしょうか。(p42)

地方参政権のを含めた筆者の論の根本的問題点を指摘しておこう。これらの論は、「永住外国人は帰化をすればよい」という単純な選択肢を見逃している。日本国籍は外国人である限り絶対にとれないものなどでは全くない。無論取得が難しいという声はあるかもしれないが、ならば国籍取得の条件を緩めるべきだと主張すればいいだけの話である。

筆者は、公務就任権をこばむ論を「形式論」だという。なるほど、だが国籍というものそれ自体が、永住する国を選択する形式にすぎないのだ。だから、形式にすぎない国籍を取得しないのがそもそもの問題であって、国籍がないから火消しになれないのが形式論化するのも当然である。だがそれは、外国人に火消しを認めろという結論には結び付かない。あくまでも、「外国人は日本国籍を取得すべきだ」という結論が出るだけだ。

なお、国籍が存在するのは、永住地は確定させる必要があるからである。政治とは短期的利益のみならず長期的利益に基づく政策も絶対的に必要である。ところが、永住する意思を示さない人間にまで政治的活動に参加することを認めてしまうと、短期的利益のみで将来に大きな損失を伴うような政策が成立してしまい、日本に永住する意思のある人々の利益を損ねることになる。だから、何らかの形で永住意思を見分ける形式が必要であり、それが国籍なのである。

また、公務員についても外国人が就任できないのは、たとえばその外国人の祖国と日本が交戦関係に陥った時のことを考えてのものである。戦争のために火消しがボイコットに入られたら、一般国民はたまったものではない。公務員になりたいなら、速やかに国籍を取得すればいいだけの話である。

11 首相の靖国神社への参拝はなぜいけないのか

そもそも問いのたて方からしてこの項目は変(正しくは「首相の靖国神社への参拝はいけないのか」であるべき)なのだが、それは筆者の政治的イデオロギーを如実に表しているのでもあろう。ともかくも筆者の考え方は

政府の要職にある人が参拝することは、この神社を特別扱いする印象を国民に与えるのは明らかです。憲法で定められた政教分離原則に反する、違憲の行為と言わざるをえません。(p93)

ということである。まず、

この問題(何が宗教活動か)を判定する基準を「社会の一般通念」というような多数者の感覚に求めてはなりません。(p91)

と書いていながら、「(宗教的な)印象を国民に与えるのは明らか」と書いているあたりで自己矛盾も甚だしい。結局、多数派の直観に訴えているのだから。

とりあえず、政教分離が何のためにあるのかといえば

宗教の自由や人の「心のあり方」に、政府が介入したり、それを方向づけたりはしないということを保障するため(p89)

と書いている。これには同意する。そしてむしろ、ここにきちんと書かれているとおり、政教分離の本質は「国家が宗教を弾圧しない」ことにある。だから逆にいえば、ある行為が他の宗教団体ないし他者の宗教心を侵害しないのでない限りは、政教分離原則は適用されないと考えるべきである。さて、首相の靖国参拝がどういう形で他の宗教団体や宗教心を侵害することになるだろうか。私人として首相が参拝している限り、ただ著名人が参拝したのと同等の効果しか生まれない。ゆえに首相の私人としての参拝は政教分離違反には当たらない。

さらにいえば、上記の論は私人としての場合だったが、公人として、つまり公的な追悼を靖国で行ったとしてさえ、政教分離違反にはならないことをサポートする。公的追悼を靖国で行うことは、相対的な地位としては靖国が微妙にポイントを上回らせているのかもしれない(非常に微々たる量だと思うが)。だが、絶対的な地位として、他の宗教団体は侵害を受けているだろうか。これを明確な形で示せない限り、政教分離をもって公的な靖国参拝を批判することはできない。

政教分離の本質が「宗教弾圧の抑止」にある以上、政治家が公的に、「靖国にはいかない」「行くものではない」などと発言するのは、靖国神社の地位を不当に低下させるものだといえるだろう。わざわざ政治的な場で、特定宗教団体は行くに値しないと明言しているのだから。だから、むしろ政治家が「靖国に行かない」と発言することの方こそが政教分離に違反しているのである。靖国に行きたくないと思うのならば、何も言わずにただ行かなければいいのだ。

なお、最後の部分で「平和主義の擁護義務」(p95)と書いているが、このようなものが発生するわけがない。憲法の平和主義の規定は九条のみであり、どう拡大解釈しても「靖国が軍国主義賛美であり、平和主義と対立するから、靖国に行くのは憲法違反である」という論理的帰結は出てこない。前文があるではないか、というのかもしれないが、だったら世界の「平和を愛する諸国民」が平和を愛していないと、中国や北朝鮮へでも抗議しに行ってきたらどうだろうか。

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