« 愛敬浩二『改憲問題』~通俗憲法書批判2 | トップページ | ノーベル賞について »

伊藤真『憲法の力』~通俗憲法書批判3

第1章

筆者は

こういった日本国憲法の改正手続きとその硬性さを十分に理解した上で、私は国民投票法の制定を急ぐべきではない、という立場から(後略)(p30)

と述べる。だがここで間違っているのは、憲法が硬性であるというのはあくまでも全議員の3分の2を要するという点のみにかかっているものであって、憲法が硬性だから、3分の2発議「以外」のところも慎重にしなければならない、などという結論はどこからも出てこないという点である。

なお、筆者は憲法を権力を縛る道具と考えているようだが(p28)、それが短絡的であることは、拙稿渋谷秀樹『憲法への招待』(上)を参照していただきたい。

筆者は、国民投票法を制定したことに対し

しかし、今のように具体的な改憲論議が出ている以上、いくら中立的な手続法だといっても、それはまやかしである危険性が高まります。(p32)

という。そして

改憲の必要性を感じる人にとっては、手続法も必要になるというだけです。そして、これまでは必要性がないので作らなかった、というだけなのです。(p33)

という。だがこの2つは矛盾している。まず、改憲が必要になったから作っただけだろ、というのは、逆にいえば護憲派だから作りたがらなかったんだろ、ということでもある。要するに後者は意味のない批判である。そして、護憲派は作りたがらない以上、改憲論議が出ていない状況下で誰が手続法をつくろうなどと言い出すのだろうか。他の優先課題が処理されるにきまっているではないか。結局この論拠は、意地でも手続法を通したくないというだけの非論理的な不満にすぎない。

次に、国民投票法の内容について、1言論の自由が保障されていない、2資金力で差がつく(有料広告・テレビ・新聞等は全面禁止せよ)という。当然ながら、この2つは矛盾している。そして筆者もそのことを認めているが、その論拠は明確でない。有料公告は「マインドコントロールが行われる可能性がある」「理性的判断を奪う」(p42)などというが、その根拠は示されていない。要するに筆者の勝手な憶測で言論の自由を奪っているのだ。さらに、「理性的判断を奪う」のは、公務員等の立場を悪用しても十分起こりうる。ゆえに、筆者の論は矛盾している。

また筆者は、最低投票率を設けるべきだとし、

ですから、ここで要求される国民の意思も、“積極的に改憲に賛成の国民がどれだけいるか”が問題となるのです(p50)

という。だが、「ですから」の前で示されているはずの論拠は国民主権だけである。これではまったく論拠とは言えない。投票に行かない人というのは、端的にいってしまえば「憲法なんてどうでもいい」という人である。つまり、「憲法は大事だよ」という護憲派の主張とは真っ向から対立する考えの持ち主なのである。それを数を水増しするために自分の陣営でカウントしようとするのは汚いとしか言えない。投票に行かなかったというのはニュートラルにしかカウントしえず、ゆえに改憲賛成・反対のどちらにも入れようがない。だから、最低投票率を設けることの意味は存在しない。

また筆者は、賛成と反対は対等ではない、なぜなら、賛成は通ればプラスになるが、反対派反対が成功してもそのままだからだ、という(p54)。だが、仮に反対派が現状の憲法に賛成でない(改憲案と真逆の方向に進むべき)ならば、自分の改憲案を提示すればよいだけの話である。反対派が現行の憲法が最良だと思うのならば、それは現在自分が考える最良の立場を採用してもらえているという非常に恵まれた環境から発生するやむを得ないディスアドバンテージだろう。むしろ現在が最良であることの方に目を向けるべきなのだ。

第2章

筆者は

最近特に「今の憲法は、どこの国の憲法なのか、まったくわからない。日本の憲法ならば、日本の憲法らしく、日本の文化や伝統を守るということや、日本らしさを強調する文言に変えるべきでは?」といった声を聞きます。私はこのような意見に対して、次のように反論したいと思います。(p86)

という。そしてその反論というのは、まとめてしまえば

わざわざ日本民族を強調するような憲法に変えてしまい、ことさらに民族を強調する教育を行うとなれば、世界の潮流に逆行していると思われても仕方ありません。(p88)

ということである。しかしここでは論理のすり替えが行われている。「日本らしさ」と「日本民族らしさ」はまったく別物である。前者が論点のはずなのに、筆者は、後者はいけないと反論している。むしろ、日本と日本民族を同一だと筆者は錯覚してしまているという時点で、むしろ筆者の方が改憲派などよりも民族主義的であるとさえいえるだろう。

筆者も認める通り、国家とはフィクションであるのだから、これは自覚的に維持しなければならないのだ。だから、国民意識を作るべく、憲法に国家性を表す文言を入れることは自然なことであり(他国ではみな行っていることだ)、逆行でも何でもない。

また、他国の憲法が「愛国心」を骨格にしているのに対し、日本国憲法は「人類愛」の水準にあるから、これは「ステージが一つ上」(p93)という。そして、愛国心のレベルに戻ることを「幼児性の表れ」とまでいって罵倒する。

だが、日本国憲法が他国の憲法と異なることはその通りだろうが、なぜ日本の憲法の方が優れていると言えるのか、これについて筆者は何も説明しない。ただ、すごいとかすばらしいとかのきれいな言葉を並べてほめたたえるだけである。そもそも、「平和を愛する諸国民」を信頼しているのが「人類愛」なわけではない。平和を愛する諸国民がいないのにいると信じ切って信頼しているのはただのバカである。そんなものは人類愛などとは言わない。

第3章

この章では、改憲の擁護論を5つ取り上げ、一つずつ反論しているので、それに再反論しておこう。

1 国民を守るには軍隊が必要だ

筆者の反論は、「軍隊が守るのは抽象的な国であって、国民ではない」というものだ。

だが、抽象的な国がなくなってしまえばやはり国民は守られないのだから、軍隊が国民を守っているといってもなにも誤りではない。

国を守る際に一部の国民が犠牲となりうることを言っているのだろうが、それは国民を守っていないことを意味しない。薬を飲むと胃が荒れるが、そのことから「薬は体を守らない」などとは言わないのと同じ話だ。

2 軍隊をもったからと言って戦争になるわけではない

筆者の反論は「そうはいっても歯止めはかからない。ずるずると戦争になっていくものだ」というものだ。

だが、そんなことをいったら、日本以外の国は九条を持たないのだから、同じ論理に従えば世界中で戦争になっているはずであろう。きちんと歯止めをかける方法はあるのだ。それとも日本人だけは野蛮な人種だとでも言う気だろうか。

3 攻められた時のために軍隊は必要だ

筆者の反論は「テロに対しては軍隊は無力だ。軍隊がいる方が責められにくいのならばそれを立証すべきだ。抑止力は戦争の覚悟がいるし泥沼になる」というものだ。

最初の反論は反論になってない。テロ以外の攻撃に対しては軍隊は有効ではないか。

二番目の反論は、まず立証責任の押し付けにしかなっていないうえ、論拠も「改憲という新しいことをしたいなら示せ」という筋の通らない話である。常識的な発想として、軍備には抑止効果があるのだから、それに反証したいなら、抑止に役に立たないと主張する側が立証すべきだろう。しかも、ゲーム理論を用いて(例:長谷部シェリングなど)軍事の抑止効果は示されている。

三番目がおかしいことは、上の記述からもわかるが、そもそも外交などにおいて軍備という背景の有無が交渉を左右することは十分に考えられる。また、抑止というのは、相手よりも強くなければ成立しないというものではない。仮に相手が勝てても、自分の受けるダメージを考えると攻撃しない、これが抑止の構造である。筆者は抑止のためには相手より強くならねばならないと考えているが、これは誤解である。

4 国家は自分で自国を守るべきだ

筆者の反論は「今は集団安全保障の時代だから、自前の軍隊入らない」というものだ。

この反論は、集団安全保障のなんたるかをまったくわかっていない。集団安全保障は、他人が攻められたら自分が攻撃者を攻めてあげる代わりに、自分が攻められたら一緒に反撃してくれる、というものだ。守られっぱなしのタダ乗りなどでは全くない。むしろ集団的自衛権と構造は全く一緒であるわけで、他人が攻められても協力してくれない奴などは、集団安全保障の輪には入れてもらえないのだ。考えてみれば当たり前の話ではないか。自分は何も苦労をしないでいようとするやつを、誰が守ってあげようとするだろうか。

そして実際、国連憲章には、決議があれば軍隊を提供する義務がある。幸いにしてそういう決議はまだなされていないが、国連は軍隊の提供を求めているということは認識しておくべきだろう。

5 近隣諸国の軍拡に対処すべきだ

筆者の反論は「別に大丈夫だ」というものだが、それは論拠がない。筆者は「かなりの確率で攻めてくる、とは言えない」ことしか示せておらず。その程度の確率ではやはり危険と認定されるだろう。筆者は、軍事的威嚇について「こちらが脅威だと考えなければいいだけ」などととんでもないことを言う。脅威だと思わなければ脅威でなくなるのならば、世の中からはなんの危険もなくなることだろう。

そして、軍拡が起きているのに、中国や北朝鮮には一言も批判をしない。これはダブルスタンダードだと言われてもやむを得ないだろう。

さて、九条からは離れるが、教師の国歌斉唱の話について(p98~101)も触れておこう。

筆者は、斉唱義務はおかしいとして、「問題なのは、それを国が強制すること」(p99)だという。

だが、まず強制されているのは国民一般ではない。あくまでも、自発的に教職に就いた教師である。斉唱義務が発生するのは、それが職務内容に含まれているからであり、国歌斉唱の問題は、「職務を信教の自由で拒否しようとする人と、職務を遂行させようとする雇用者」という関係で成立しているのだ。この点を見落として「国が」とか「国民が」というのは誤った議論である。

さて、教師の職の中に国歌斉唱が含まれているのは、小中学校を出たものならばされでも知っている。ゆえに、自らの自由意思で教職になったものは、当然国歌斉唱を職務として行う意思があると判定される。その契約を事後撤回したいとすれば、すなわちそれは教職を辞すことを意味する。

ところが、教師の主張は、自分がいったんは自発的に職務として認めたものでありながら、あとでやっぱり職務はしたくないと言い、そのくせ不利益な境遇には一切置くな、給料はちゃんとよこせ、と要求しているのだ。そのようなわがままが通るはずがない。

|

« 愛敬浩二『改憲問題』~通俗憲法書批判2 | トップページ | ノーベル賞について »

書評」カテゴリの記事

憲法」カテゴリの記事