« 国連死刑廃止要求決議の欺瞞・非論理性(下) | トップページ | フーコー『言葉と物』~エピステーメー論の臨界 »

「悪魔の証明」に関する謬見

悪魔の証明、を、非存在の命題は主張者側は立証責任を負わない、という風に誤解されがちなきらいがあるので、そしてそれが特に懐疑主義的、相対主義的主張の論拠に使われているきらいがあるので、ちょっと書いておく。

そもそも立証責任は、主張内容の強さに対する立証の容易さによって割り振られる。そこで、一般には、非存在命題は、それが凡庸な(つまり弱い)主張であるにもかかわらず、立証だけはやたらと困難であるから、非存在証明の側は立証責任をまぬかれるわけである。これが「悪魔の証明」の骨子である。 

ここで、「事実は存在しない」という相対主義的主張を取り上げてみよう。 

概念と独立に世界が(=事実が)存在するというのは、一般人および(現代思想系から見たら遅れているといわれるのだろうが)哲学者からみたらきわめて常識的感覚である(普通の人は日常生活でそう考えなきゃ暮らしていけない)。要するに、「何か事実は存在する」というのは非常に弱いテーゼである。一方で、「絶対的事実などはいっさい存在しない」というのは強いテーゼである。 

そして、「何か事実が存在する」ということは決して容易に示せるものではない以上、強いテーゼである「事実は存在しない」という主張者側が立証責任を負うのが妥当だと考えられる。 

つまり、ここで「悪魔の証明」を用いて相対主義的主張者が立証責任をまぬかれるのは、「悪魔の証明」の誤用なのである。 

そしてこの話は、「事実は存在しない」という主張のみならず、多くの反直観的な懐疑主義的、相対主義的テーゼに当てはまる。 

基本的に立証責任は、事実に関する言明ならば常識から乖離する側が、規範に関する言明は現行の状態から乖離する側が、基本としては負うものだと考えられよう。もちろんケースバイケースなので、「私には立証責任はない」などと開き直れるケースは多くは存在しないだろうし、双方が相応な分だけ立証責任を負うのが一番多いケースだろうが。

|

« 国連死刑廃止要求決議の欺瞞・非論理性(下) | トップページ | フーコー『言葉と物』~エピステーメー論の臨界 »

哲学一般」カテゴリの記事