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中江兆民『三酔人経綸問答』の逆さ読み

この本を読んだときに、私は自分の予想していた内容と大きく異なることに驚かされた。本書は書名が『三酔人経綸「問答」』となっているように、てっきり紳士君、豪傑君、南海先生の三人による議論・鼎談が行われるものと期待していたが、実際に書かれていたのは、ただ紳士君、豪傑君、南海先生がそれぞれ自分の意見をずらずらと述べて終わりというものだった。言ってしまえばこれは3本の異なる立場の主張が書かれた論文集であり、「問答」でも「鼎談」でもない。では、なぜ兆民はこれをきちんとした鼎談にしなかったのだろうか。

これは、豪傑君の最後の方のセリフがヒントになるだろう。豪傑君は「先生の論は、吾儕両人の言に於て、一も採用せらるゝこと無し」[1]と述べている。つまり、南海先生のたてた論は、豪傑君の論とはかみ合っていない[2]ということだ。このことは、三人の鼎談がそもそも不可能であったということを意味する。鼎談の場合、互いの論がかみ合わないということはありえないからだ。そう考えると、兆民が鼎談にできなかったことは理解できる。

だが逆にそう考えると、なぜ兆民はわざわざ本の名前に「問答」などと銘打ったのか、が大きな疑問となるだろう。なぜ「問答」にするべき内容がないにもかかわらず、『三酔人経綸「問答」』というタイトルなのか。

これは、「問答」と銘打ちながら、実は問答として成立していないという事実それ自体が、兆民の言いたかったことであるからではなかろうか。三人の議論がかみ合わないという事実は、三人に代表される考え方は、議論を重ねることによって論理的に打ち破ったりすることができる類のものではないことを意味している。つまり、三人の考え方は、論理によってそのうちの一つが選びとられるようなものではなく、論理に先行した「感覚」において選ばれるものであり、外交の方針を述べることはいわば信仰告白を行うがごときものだ、ということになる。

兆民が本書で示したのは、一見議論によって結論を導けるようにみえる国防・外交の問題が、実は議論において片づけられるものではなく、感覚によって選びとられるべきものであるということであろう。「問答」と銘打ちながら中身がちっとも「問答」でないことによって、国防・外交の問題が理において選択されるようなものではないことが逆説的に示されている。そしてだからこそ、理性が前面に出ている人ではなく、感情がより支配的になっている「酔人」がキャストに選ばれたのだろう。


[1] 中江兆民『三酔人経綸問答』岩波書店 p205

[2] もちろん、細かい事実問題についてはかみ合っているようにみえる部分もあるが、その場合にしても、論拠をもって示すというよりは、断言して終わりという感じが強い。

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