丸山真男『丸山真男講義録 第三冊 政治学』~批判だけの政治参加には意味がない
丸山の政治への姿勢は、二重性とでも矛盾性とでもいうべきものが軸に占めている。相対立しあう概念をともに組み込むことや、相対立しあう概念をともに放棄したりすることを要求するということだ。
前者の例としては、政治に対する情熱と政治への距離を置いた視点[1]、人間における善と悪の共存[2]が上げられ、後者の例としては、政治における闘争への恐怖と妥協への軽蔑の両方の禁止[3]、合理主義と決断主義の両方の否定[4]などが上げられよう。実際、丸山は、規範からの論理的帰結から逸脱した行為を決断して実践することが政治においては必要だとし[5]、現実の矛盾性の容認こそが政治では必要だとしている[6]。
だが、丸山は「どちらもいけない」や「どちらも加味せよ」というにとどまっており、矛盾を乗り越えた先で具体的にどのようにしていくのか、の積極的な規定はほとんど行っていない。そのため、ただ矛盾した規範のみが与えられる形になってしまい、「矛盾した命題からは任意の命題を導ける」という論理学の定理に従って、いかなる行動をも矛盾した規範に基づいて批判することが出来てしまう。これでは、オールマイティーな批判道具を与えたに等しく、実質的な意味はないとさえいえるだろう。
「規則からの逸脱」「矛盾の中での決断」といえば、誰しもデリダを思い浮かべることだろう。彼もまた規則化された法/権利は不可避的に漏れが生ずることを指摘し、矛盾の中での決断としての「法の脱構築」を擁護する[7]。だが、デリダは、法の脱構築を単なるニヒリズムではなく「肯定の思想」とするために、否定神学的であれともかく絶対的な正義を設定する、という対価を支払わざるを得なかったことを忘れてはならない。逆にいえば、なんらかの絶対的なものを政治の外側に設定せずに、ただ矛盾のみを上げているのは、すべてに「ノー」を突き付けるだけのニヒリズムに堕してしまうということである。
本書における丸山の言説に通底しているのが、徹底して市民に対して政治的行動をとるように呼び掛けることであるのは間違いない。市民の政治的アパシーへの対抗策をかたくなに探し[8]、またリーダーに対する市民側のフィードバックを行うよう働きかけている[9]。丸山の主眼が「大衆の「本来のインテリ」化」[10]であるとすれば、彼の政治学の講義でそれが表れるのもまた当然といえよう。
だが、市民の政治参加が、上記のような規範に基づいて行われてしまうとするならば、それはただ「あらゆることに文句を言うだけの大衆」になってしまう。特に在家仏教主義を擁護するならば、まさに国民の「短絡的批判」を受け入れることにつながってしまうだろう。不可能な理想を求められても、それは政治がデッドロックするだけで無意味である。それはともかくも現行政治体制に反対し続けたい人にとっては援護射撃となるかもしれないが、建設的政治論議を望むならば、ただマスで勝負するだけの大衆運動はかえって有害だとさえいえるだろう。
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