« 「悪魔の証明」に関する謬見 | トップページ | 石射猪太郎『外交官の一生』~戦後的外交の命運 »

フーコー『言葉と物』~エピステーメー論の臨界

フーコーは本書において、人間諸科学を考古学的に分析し、「主体としての人間」という発想が、19世紀のエピステーメーによって作られているものに過ぎないことを指摘する。そして、そうした人間諸科学を批判し、エピステーメーの転換が起きるときに

そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと(p409)

と衝撃的に言いきって筆を下ろす。

エピステーメーによって支持されているにすぎないものを絶対的真理と錯覚すること、それを科学と標榜する欺瞞、をフーコーは批判する。ただ、それであるならば何を取り上げてもいいだろうに、あえて「人間」という概念について取り上げたのは、彼が「真に主体と言えるのはエピステーメーであって、人間ではない」という考えを抱いているからなのは想像に難くない。

では、フーコーの主張の分析に移ろう。

まず、エピステーメーによる分析という方法論そのものが、重要な難点を抱えているように思われる。

エピステーメーは思考に関する規定を表すものであり、ゆえにエピステーメーについての分析から「我々はこのような発想を抱かなくなるだろう」という結論を導くのは論理的には正しい。

しかし、そこから一足飛びに「我々の発想は誤りである」という結論は導くことができない。これは、思考の指示対象と思考そのものを取り違える「発生論の誤謬」に陥っている。

科学は我々の発想法に関する記述を行うものではなく、世界に関する叙述を行うものである。このことは、人間が生まれる前でも、地球が太陽の周りをまわっていたことからわかる。事実は観察者の存在とは独立に存在しうるものである。そのため、「「人間という主体」という発想を我々が抱かなくなるだろう」という結論が導けたとしても、そこから「だから人間諸科学は誤りだ」とはならない。

なお、フーコーは認識と独立した絶対的事実というものを否定し、真理のゲームとしてそれを解釈しなおすかもしれないが、それが具体的な諸問題(ここでは、人間は主体なのか)を考える上では機能しないことは、拙稿可謬論の罠を参照していただきたい。また、真理の存在を否定する側は、非存在言明であるがゆえに立証責任を負わないという主張が誤っていることは、拙稿「悪魔の証明」に関する謬見を参照していただきたい。

次に、エピステーメーこそが主体であるという考えを見よう。

エピステーメーが主体であるという発想は、我々の思考というものはエピステーメーのノード(つなぎ目)的な部分に位置し、エピステーメーこそがベースでそこから編み出されたものにすぎない、ということになる。

エピステーメーが広範に我々の思考を規定するためには、我々の思考において共通な部分をエピステーメーが占める必要がある。さらにエピステーメーの転換が存在するということは、「共通な部分」というものは生得的なものではなく、後天的に獲得されたものだということになる。そのため「共通な部分」は、本書のタイトルが『言葉と物』であることからも想像がつくように、言語的なものに求めていると考えられる。この発想は「言語が思考を規定する」というサピア=ウォーフの仮説などとも通じるものだろう。

しかしそうすると、言語を分析すればアルゴリズム的に思考を導けるという、論理実証主義の構文論的アプローチに漸近していくだろう。だが、構文絽的アプローチは、ただ言語間関係のみに着目してしまうがために、指示や実体を欠落させてしまい、当の問題と関係ないところを回ってしまっている(統語論では意味論へたどり着けない!)。

そもそも、言語において指示に齟齬が生じたり、同一語において意味の歪みが生じたりするということは、言語以外の部分において思考を規定する要素が存在するということである。そうすると、言語が思考に役立っていることは否定しないが、言語はあくまでも思考の補助であり、本質的な部分は別に求めることができるということになろう。すなわちそれは、エピステーメーによる思考の厳格な規定というものは行い得ないということである。

もっとも、フーコー自身がエピステーメーに気づくことができたという点、またエピステーメー自体が転換できるという点、を鑑みれば、エピステーメーによる支配というものは、決して絶対的なものではない。あくまでもエピステーメーは同時代の強い思考傾向と解釈しておくべきだろう。そして我々はそこから逃れることも批判することもできる。そのことは、逆説的に考えれば、人間諸科学を擁護しようと思う側からは、

「人間という主体、というのは事実に適しており、そのせっかくたどり着いた事実を我々は意識し続けているべきである。だが、エピステーメーが転換してしまったらそれも水泡に帰す。だから、せっかくたどり着いた事実への正しい認識を守り抜くために、エピステーメーを積極的に維持し、「人間=主体」をより声高に訴えていこう」

という結論を帰結させることになるだろう。いやむしろ、それこそがフーコーの論からの論理的帰結であり、認識は我々の側が自覚的に維持しないならばその真理性いかんにかかわらず消滅の危機にさらされる、だから我々は現行の認識構造を自覚的に維持すべきだ、ということこそが、フーコーの論を組み立てなおした後でそこからくみ取るべきものだろう。

|

« 「悪魔の証明」に関する謬見 | トップページ | 石射猪太郎『外交官の一生』~戦後的外交の命運 »

書評」カテゴリの記事

哲学一般」カテゴリの記事