国連死刑廃止要求決議の欺瞞・非論理性(下)
・犯罪抑止力にならない
犯罪抑止力がないとする論拠は(今回の報告のデータは見てないが)、おそらく死刑廃止の前後でデータを比較して有位な差が見られないというものであろう。しかし、その方法だと、死刑制度の影響以外の社会的影響による犯罪率変化の大きさを下回る抑止力であるならば、通常のデータには現れないが、抑止力自体は存在していることになる。また、死刑廃止の影響は、おそらく死刑廃止後の社会環境で教育を受けて大人になった人々においてはじめて現れるだろうから、直前後で比較しても意味はない。死刑が廃止されたから犯罪しようなどという人は誰もいないからである。しかしそのことは死刑に抑止力がないことを意味しないのは当然である。
また、死刑と終身刑、終身刑と懲役30年、懲役30年と懲役25年・・・というように個別の刑罰間でのみ抑止効果の差異を見ていけば、どの差異においても明白な抑止効果は見られないだろう。しかし刑罰全体においてはれっきとして抑止効果がある。これは「禿のパラドックス」(髪が100万本の人は禿ではなく、禿でない人から1本髪を抜いても禿ではなく・・・を繰り返すと髪が1本の人も禿ではなくなるというパラドックス)と同じで、死刑と終身刑の間にも目立った差異はなくとも抑止力に差はあるのである。そしてその小さな抑止力の積み重ねが現行の刑罰の抑止力を積み立てているのである。
抑止効果についてもう一点。これは小浜逸郎も指摘していることだが(『なぜ人を殺してはいけないのか』参照)、死刑廃止をした場合の問題点は、我々の潜在意識において「何をしても死ぬ心配はない」という考えが根付いてしまう点にある。そういう潜在的な抑止効果はなかなか表面化しない。この抑止効果は「大事件が起きなかった」という形でしか現れ得ないからである。
・冤罪の可能性がある
まず死刑に限らずあらゆる刑罰では冤罪が発生する可能性があるのだから、冤罪が発生する可能性があるからといってその刑罰を廃止していると、あらゆる刑罰を廃止しなければならなくなる。
また、冤罪がおきるかもしれないという事実は、だから裁判の審議をより慎重に行うようにしよう、そういう司法制度を構築しよう、という主張には結びつくが、だから死刑を廃止すべきだという主張には結びつかない。これは、自動車は交通事故を起こす可能性があるという事実からは、だから事故を起こしにくい自動車を作ろう、そういう訓練を行い、法整備をしよう、という主張には結びつくが、だから車をなくそうという主張には結びつかないのと同じである。
・死刑の通告について
記事によると、死刑の通告を家族には事前に行わず、当人にも1時間前であることについて「死刑執行の正当性をおびやかす」と書いているが、このことがなぜ正当性を脅かすのかが理解しがたい。むしろ事前に当人や家族に通達してしまったら、なんらかの妨害や、自暴自棄の行動に死刑囚や家族が出るではないか。それに、他の制度について、それが事前通告がないから正当でない、という批判は聞いたことがない。まさか、死刑を事前に通知してもらえれば妨害活動ができるが、今のままだとできない、とかいう理由ではないだろうが。
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