可謬論の罠
ときどき耳にする命題として、以下のようなものがある。
命題1「絶対的Xというものは存在しない」(絶対的事実は存在しない、絶対的価値は存在しない、などなど)
命題2「人間は必ず失敗する」(人間は物事を正しく見れない、人間の作った科学法則は必ず将来否定される、などなど)
今回考えたいのは、こうした命題の効力についてである。
この2つは、本質的には同じ問題を抱えているので、命題1から考えよう。
まず、この命題を教訓のレベルで解釈するならば、この命題は文句なく成立するだろう。つまり、命題1を「絶対的というものを安易に信ずるんじゃない。常に物事は疑ってかかれ」という教訓のレベルでとらえるのである。
その場合、命題A「Pは絶対的Xである」と対したときに、命題1は命題Aを特には否定しない。命題Aへの反証を探すような強力な動機づけを与えるのみである。
しかし、命題1を命題Aと同等のレベルにまで引き上げ、命題1が命題Aを否定する状況へと至ると話は変わる。
命題1の信奉者は、命題Aを自身の信ずる命題に従って即座に否定したくなるだろう。だが、それは誤っている。なぜなら、命題1自身が命題Aによって反証されているからである。そして、命題1を反証するためには、命題Aのような形の命題を持ち出さざるを得ない。そのため、命題1の信奉者は、もし命題1を保持し続けたいならば、命題Aを用いずに命題1を否定せざるを得ない。だが、この「否定」というのは、(メタ的ではない)単純な命題Aへの批判にすぎない。
そのため、命題1をもって命題Aをメタ的に批判しようとしても、その方法は不発に終わり、結局通常の手法での命題Aの批判、つまり「Pは事実に反していますよ」という形のごく普通の批判、を行わざるを得ないのである。
つまるところ、命題1は
・教訓として解釈し、命題Aの反証への強力な動機づけを与える
・テーゼとして解釈し、命題Aを普通の方法で批判せざるを得ない状況になる
のどちらかの帰結しか生まない。
命題2にも同様の議論を行うことができる。
すなわち、「人間は失敗するものだ」と教訓的に教えてくれるものと解釈するか、その都度その都度が反証テストとして機能するため、命題2とは独立に批判を構築せざるを得なくなるか、の帰結へと行きつくのである。
まとめると、命題1のようなメタ的地平からの批判は、命題Aのような個別的問題に対しては効力を有していない、ということである。
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