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フラーセン『科学的世界像』~科学的実在論の命運

本書でフラーセンは、論理実証主義をも科学的実在論をも否定する。彼が採用するのは、科学とは「経験的十全性(これまでの経験をきちんと説明すること)」を満たすモデルの提供であるとする構成主義的経験論である。

構成主義的経験論のメリットは、観察不可能なものについては、その実在性にコミットすることなく、理論にはコミットできる点にある。なぜなら、構成主義的経験論においては、理論とは、現実を真なる方法で説明するものではなく、経験と合致するモデルを提供するだけだからである。

さて、筆者は論理実証主義の構文論的アプローチ(用語間の関係のみを分析して科学を解き明かそうとする方法)を批判する。なぜなら、言語依存的な方法では、言語の周りをぐるぐる回るだけで、科学の本質へは到達できないからだ。科学を分析したければ、現象をより大きく見る必要がある。

また、筆者は科学的実在論も批判する。科学的実在論と反実在論の差は、直接には観察不可能なもの(例えば電子)に関する実在を認めるか否かである。

彼は、想定される実在論からの反論にこたえる形で、自身の構成主義的経験論を擁護する。

まず、観察可能と不可能の境界は引けないという反論があげられる。だが、これについては、その境界が「あいまい」であることは意味するが、だからといってその区別が無意味であることは意味しないという。これは滑り坂理論の誤謬である。(p47)

また、観察可能と不可能の境界が、原理的には壊されうる(例えば、人間が電子顕微鏡の目を持っているという状況を考えることで)という反論には、科学の目的は経験的十全性、つまり人間にとって観察可能なものについての充足、だから問題ないとする。

だが、この反論には疑問が残る。

なぜなら、その説明だと人間の能力が変化することで、科学自体が変化してしまうからである。たとえば、何らかの事故で人類の視力が著しく低下したとしよう。その場合、これまで科学と認められていたものが観察不可能なものへの言及であるということで科学的説明から外されてしまうのであろうか。あるいは、驚異的に視力のいい人類が発見されたら、それだけで実在の範囲が変わるのだろうか。

次に、説明を観察可能な領域で中途半端に止めてしまうのは不合理だ、という反論があげられる。これに対しては、電子による説明でも、やはりあるところで説明を止めてしまっているのは同じだ、と指摘する。説明をせずに規則性を前提にしてしまっているのは、実在論も同じだ、ということだ。

だが、実在論において行われているのは、本当に説明の停止なのだろうか。電子もさらにクォークや超ひもによる説明を行いうる。実在論的な説明は、決して説明を止めることがなく、さらに奥の規則性を求め続ける。これが反実在論との差異であろう。

また、「実在を想定しなければ科学の成功は奇跡になってしまう」という奇跡論法には次のように反論する。

この点は、敵であるネコから逃げるネズミについての、二つの説明を対照してみることによって、もっともよく示すことができる。(中略)すなわち、ネズミはネコが敵であることを知覚し、それゆえにネズミは逃げるのだと。(中略)しかしダーウィン主義者は、なぜネズミが敵から逃げるのか、とは問うなと言う。天敵と対処できなかった種は、もはや存在していないのだ。(後略)

(前略)いかなる科学理論も、すさまじい競争、牙と爪の入り乱れるジャングルの中に生まれ落ちるからである。成功した理論のみが生き残る――すなわち、自然における現実の規則性を実際に把えた理論だけが生き残るのである。(p87)

では、この反論に再反論しておこう。

まず説明には「構造的説明」と「系譜的説明」の2つがある。前者は、「いかなる構造が、そのことをなしうるのか」を説明する。後者は、「その構造は、どのような歴史をたどって作られたのか」を説明する。後者が行っているのはあくまでも「説明される対象が、なぜ今ここに存在するのか」の説明であることには注意しなければならない。

進化論は、説明される対象の存在を、その対象の持つ構造的優位性によって説明するものである。だから、系譜的説明には、構造的説明が含意される。たとえば、なぜ我々は目のような複雑な構造を持っているのか、それは神が与えたのではないのか、という問いに対して、いや、それは目を持つ個体の方がものを見ることができてよく生き残るからだ、と説明される。だが、この説明が成立するためには、目を持つ個体は、ものを見るということが可能であることが構造的に説明されねばならない。同様に、自然の規則性をとらえているかのテストを生き抜いた理論は、なぜその理論は自然の規則性を正しく捉えられているかを構造的に説明できることを含意する。ゆえに、系譜的説明ができたからと言って、科学理論は実在にコミットしなくていいことにはならない。

この誤りはフラーセンが問いを「一体なぜわれわれはうまくゆく科学理論を持っているのか」(p86)と言い換えていることに依存するだろう。この言い換えは妥当でない。正しくは「なぜその科学理論はうまくゆく(テストをクリアする)のか」である。そしてその説明では実在論が必要となるだろう。

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