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日本は侵略国家であったか、などを論ずる前に

まず侵略の定義をきちんと決めるべきだろというのは、非常に常識的な発想だと思うのだが、そういう定義をきちんとしてから議論が始まった試しがほとんどない。定義がきちんとしてなかったらダブルスタンダードをやって自分の好き勝手な結論を導けてしまうにきまってるじゃないか。

で、欧米の戦争と日本の戦争との対比みたいなのがよくなされるけど、ごく普通に考えれば

・欧米の戦争も日本の戦争も侵略(侵略の定義を広く取った場合)

・欧米の戦争も日本の戦争も侵略ではない(侵略の定義を狭く取った場合)

のどっちかになるはずなわけで。

ところが、定義を隠して議論を始めるから

・欧米の戦争は侵略ではないが、日本の戦争は侵略である(歴史教科書的というか通念)

・欧米の戦争は侵略だが、日本の戦争は侵略ではない(一部右翼による反動)

の不自然な二極が発生するわけだ。まあ一番おかしなのは、なぜ前者のような変な説が通念としてまかり通るのかという点なのだが。

結局こういう風な結論が出てくるのは、先にイデオロギーで結論を決めておいて、あとから理屈付けをしてるからだ。これは右も左も同じ。実際、田母神論文の選考の委員は

論文の中で使われている歴史的事実などに異論をさしはさむ向きはある。正直いって、審査の過程でもそのことは話題になった。だが、総体として、田母神氏が真っ向から「日本は侵略国家の濡れ衣を着せられている」と問いかけたことを重視したのであった。

と言っている。ダメじゃん。

ただ、侵略か侵略でないかとかは実は意味がない話だったりもする。というのは、法律的な意味以外において侵略が語られている場合、そこには戦争による攻撃以上の価値へのコミットメントがあって、それは明らかに史実を超越する位置にあるからである。このような価値観をうだうだ争うことには意味がない、少なくとも歴史家の仕事ではない(だから、侵略か否かとかにやたら首を突っ込む歴史家というのは怪しいわけで。まあそんなのは学者さんの中にも結構いるわけだが)。

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