ヘンペルのカラスのパラドックス
ヘンペルのカラスのパラドックスとは以下のようなものである。
「すべてのカラスは黒い」を確証したいとする。たくさんのカラスを調べてそのどれもが黒いことを確かめれば、「すべてのカラスは黒い」は確証される。
ところが、「すべてのカラスは黒い」の対偶は「すべての黒くないものはカラスでない」であるから、たくさんの黒くないものを調べてそのどれもがカラスでないことを確かめれば(例えば、この白い靴、青い服・・・をたくさん持ってくる)、「すべてのカラスは黒い」が確証されたことになる???
これに対する、よくある応答は以下のようなものである。
「カラスでないものの数が少ない場合には、確かに対偶による方法はうまくいく。だが、我々はカラスでないものの方がカラスよりも圧倒的に多いことを知っているので、対偶による確証を不自然だと感じるのだ」
この応答は、以下のような例を考えることによっても支持できるとする。
「本棚のすべての洋書にはブックカバーがかかっている、を確証したいとする。この場合、洋書でない本が少ない(=ブックカバーがかかっていない本が少ない)ならば、対偶をとって、すべてのブックカバーがかかっていない本は洋書ではない、を調べるのは合理的である」
だが、この応答は不完全なものだと思われる。
まず本棚の例は、「本棚のすべての本」は全部調べ上げることが可能であるがゆえに、全称命題ではなく疑似全称命題である。ヘンペルのカラスの問題は、全称命題に対してかかっている(全部のカラスも黒くないものも調べ上げることができない)のだから、この例は不適切である。
さて、先の応答への根本的批判としては、「カラスでないものの数がたとえ(カラスの数と相対的に見て)少なくても、カラスでないものを調べる方法は合理的でない」ような例を出せばよいだろう。
さてここで以下のような例を考えよう。
「すべての細菌は1センチ以下である」を確証したいとする。母集団は生物全体とする。ここでとりうる方法は2つある。
1 細菌を調べて、1センチ以下であることを確かめる
2 1センチ以上の生物を調べて、細菌でないことを確かめる
常識的には1の方法をとるべきだろう。だが、全生物中に占める細菌の割合は莫大なものであり、それは細菌でないものを上回る。にもかかわらず、我々は2の方法をとるべきだとは考えないだろう。これは、さきの応答が不完全であったことを意味している。
では、正しい応答はどのようなものだろうか。
「すべてのカラスは黒い」において言われているのは、現実では「ほとんどのカラスは黒い」に置き換えられる。あるいは「99%のカラスは黒い」などとして、この99という数字を100に漸近させると考えてもいい。そして、このように命題を言いかえれば、もはや対偶をとることはできない。「すべてのカラスは黒い」において表わされていたのは、「カラスで黒いもの」と「カラスで黒くないもの」の量的な対比であったのである。ゆえに、カラスでないものをいくら調べてもこの対比関係の比率はまったくわからないので、対偶による調査法は不適切なのである。
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