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金子勝『市場』~経済学を知らない経済学者

一言でまとめるならば、これは経済学者が書いたのか、と思うほどひどい。それほど経済学の知識がぼろぼろである。だから、ここでは筆者の意見(これについてもいろいろ反論はあるが)には触れず、白黒が明白な知識の問題のみを取り上げる。

結局、人々は「他人の期待」に決定的に依存せざるを得なくなる。つまり他人がどうするかを見て、自分がどうするかを決める他者依存型の選択行動をとるようになる。株や土地の値上がりの過程を思い浮べれば、このことがよくわかる。他人が値上がりすると期待して買うから、自分も買うのである。ケインズが美人投票と呼んだ現象だ。そこには、「他人にかかわりなく自己利益を追求する」という当初に設定された人間像とは全く逆の人間がいることになる。(p14)

ケインズの美人投票の説明がずれているのは別の記事に書いたので繰り返さない。(p49~50も同じ)

しかし上よりはるかに重要な誤解がここにはある。新古典派の置く「他者にかかわりなく」というのは、市場は無限の大きさを有しているので、個々人の消費・生産行動は市場価格等に影響を与えず、したがって市場価格を所与として制約条件のみを見て個人個人で最適行動を分析できる、ということである。ここで上がっている例は的が外れている。

ちなみに独占企業などの場合には企業の生産量に価格が依存してしまうので、ゲーム理論を用いた分析が行われる。

これまでも、新古典派経済学に対しては、「情報の完全性」を前提とする時間概念の欠如した市場モデルにすぎないと批判されてきた。(p15)

金子は間違いなくルーカスを新古典派に放り込むだろう(実際には新しい古典派と新古典派は違うが、金子の批判が「主流派経済学」に向けられており、古典派ラインのメインが新しい古典派に移っているから、彼の批判が有効たるためには新古典派に新しい古典派を含めて(混同して?)いると考えるべきだろう)が、ルーカスの提起するRBCモデルは動学モデル(=時間概念の明確に存在するモデル)である。

この期待効用理論では、互いの情報を完全には知りえないという原初状態から出発して、交渉ゲームを繰り返しながら、複数の均衡(ナッシュ均衡)に到達してゆく。(p16)

とりあえず「互いの情報を完全には知りえない」という情報の非対称性と原初状態は何の関係もない。原初状態は「自分の状態を何も知らない状態」のことだ。

また、期待効用理論とはノイマン・モルゲンシュテインの提起した不確実性化の効用を表す関数のことだが、その関数だけあってもゲーム理論にもならないし、均衡概念自体が意味をなさない。

確かに期待効用理論では、「情報の非対称」という状況が設定されるが、そこで想定されている状況は極めて非現実的なものである。というのは、相手の戦略について知らないのに、将来起こりうる事象の確率と自分の利得集合について知っているとされているからだ。(p16~17)

まず期待効用理論は「情報の非対称」状況以外の一般の不確実性にも適用可能であるため、「情報の非対称」という状況は要請されない。

また、「相手の戦略がどうなるかを確率的にしか知らない」からこそ期待効用理論を用いるのであって、「相手の戦略について知らないのに、将来起こりうる事象の確率」を知っているなどというのは意味不明の難癖である。

なお、「利得集合」というのは「利得行列」のことだと思われるが、利得行列とは相手の行動がAであった場合の利益、Bで・・・をマトリックス表示したものであって、それは情報の非対称云々とは無関係に作ることが可能である。そこには何の不自然さもない。

そもそも主流経済学の用いるゲーム理論は、つぎのような弱点を抱えている。まず第一に(中略)極端に言えば、明らかにしたい結果を導けるように、原初状態とゲームのルールを設定すればよいことになる(p18)

いいたいことがわからない批判である。だから現実に合致するモデルを組めばよいという話ではないか。非現実的モデルから非現実的結果が出るのは当然だが、それはゲーム理論の弱点でも何でもない。

主流経済学では、協力ゲームを非協力ゲームに埋め込んでしまうので、ここで言う戦略的合理性は、自己利益(効用)の最大化を目的として「他者との関係」をそのための手段として考えることになる。人々が協力する行為も、あくまでも自己利益から説明される(p18)

協力ゲームというのは拘束力ある約束を結べるゲームのことで、非協力ゲームとはそうでないゲームのことである。この二つは別物で、一方が他方に「埋め込まれ」たりはしない。

なお、金子は「協力ゲーム」を人々の通常の意味での「協力」が行われているように錯覚している節があるが、上記の説明のように協力ゲームにそういう意味はない。

つまり、この進化ゲーム理論は、初期条件に規定されて結果が異なるので、因果連関も安定的な解も求められないという限界が認識されている。ナッシュ均衡(複数均衡)と歴史的経路性が重なる点で制度が選択されて進化をとげていくという考え方がとられる。(p20)

先ほどと同じだが、初期条件によって結論が異なるからこそ、まともな理論として使えるのである。どんな初期条件でも同じ結論が出るのなら反証の使用もなく役に立たない理論である。

後半は意味不明である。進化ゲームのナッシュ均衡(=ある一定の分布で均衡した状態)と歴史的経路性(この語がそもそも意味不明なのだが)が重なるとはどういうことであろうか。また、進化ゲームのいう進化というのは、ある時点で何かが大変化するようなものではない。あくまでも時間を経ることで子供を作る等々に伴って人数分布が変化していけばそれを進化ゲームと呼ぶのである。

もうやめよう。わずかこれだけの間にこんなに誤りがあるのだから話にならない。池田信夫の批判は本当だ。

だが最後にハイエクの部分だけ少しふれておこう。

だが、(ハイエクの仮定する:引用者注)絶えず知識の発見を求めて競争している人間は、(p48)

別にハイエクはそんな仮定を置いていない。むしろハイエクは、市場が不自然な存在であり、部族感情によって容易にナショナリズムに流れることも認めている。ハイエクは市場で人間は強くなるべきだと言っているのであり、最初から強いと仮定しているのではない。

皮肉なことに、ハイエクが設計主義者として批判するケインズこそが、長期期待に関してはハイエクよりもずっと「弱い個人の仮定」をとっている。(p49)

なぜこれが皮肉なのかもよくわからないが、ハイエクのケインズ批判は、ケインズが「やたらと強い(=知識をすべて持つ)統治者」を仮定している点に向けられており、その他一般の人々は無関係である。

(ケインズの美人投票に言及し)これが「市場による知識の発見過程」だとすれば、ハイエクの主張はあまりに皮肉に満ちている。(p50)

ケインズの美人投票はあくまでも金融市場の「長期期待」の話である。ハイエクが知識の発見といったのは一般の財の話である。それぞれの論の射程圏を間違えている。

こんな本でも、経済学のわからない政治学者や哲学者は、教条的に新自由主義が嫌いだからという理由で、新自由主義に反対してくれるこういう本を持ち上げて「良心的経済学者」とか言うんだろうなぁ。嫌気がさす。

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