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哲学は普遍的たりえるか

哲学の中で、自我論とか人生論とかいう内容のものがある。だが、そうした哲学は普遍的なものと言えるだろうか。

自我論ないし人生論は、それを考える人のこれまでの経験に立脚した形でしか、論を立てることができない。そしてそもそも、自我論や人生論として立てられた問題は、たとえ文字としては同じことを述べていたとしても、その実際の意味合いは考える人によって全く異なるものとなってしまうだろう。
それはつまり、各人によって問題意識を抱く部分が根本的に異なってくるということでもある。だが、当人が問題だとも思わないところを「ここは本当は問題なのだよ」と説いて回るのは明らかにおかしな話だ。あなたにとって問題であったとしても、私にとっては問題ではない、というのは矛盾ではない。それは、あなたは私ではない、という単純な事実が支持する。全員に当てはまる問題というのは、自分の問題意識を不当に普遍化するものだ。

自我や人生の問題は、必然的に自己の深層へと降りて考えざるをえない。そのことは、普遍性を有する言語のみならず、他には通じない私的言語(言語というのが嫌ならば、心内プロセスの何ものか、としてもよい)を用いざるをえない。だが、そうした形の思考は公共性を有することができず、ただ自分の周りで回るしかない。そうした問題は、ただ黙って悩むのみなのだ。

誰でも用いられるオールマイティーな自我論や人生論は存在しない。自我や人生は、アプリオリな形で規定されているのではなく、自分ひとりで規定されていくものなのだ。そしてそれはまた「自分ひとり」の問題なのだ。

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