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平和運動の盲点

平和運動家は、「平和の敵」を探してきて、それを「絶対的な悪」として徹底的に批判するのが好きらしい。しかし、絶対的な悪を容赦なく叩くのは聖戦と同じ状態に陥っている。カール・シュミットも指摘しているが、戦争は正義と結び付けられたときに、敵への同情が完全になくなり、限定的で歯止めのあった戦争が完全な殲滅戦へと陥る。過去の戦争の話でも現在の戦争の話でもいいが、誰かを「悪魔」に設定するのは、皆殺しの正当化まであと一歩である。

結局、平和運動家がやっているのは、誰かを悪魔として貶め、それを非難することで自分の倫理的崇高性を確証しようとしているにほかならない。その「悪魔」が彼らがためにいかなる事態に陥っても、彼らは「天罰」「当然の報い」とせせら笑うことしかしないだろう。

とりあえず目の前から武器をなくす(つまり、とりあえず日本から武器や軍隊をなくそう、そうするほうが世界は平和になる)ことを訴える平和運動家は多い。しかしこれは、平和は武器をなくすことで、そしてそれのみでなしえるものでは決してない、という事実を見落としている。平和を成り立たせているのは、軍事的なバランスである。そのバランスを崩してしまうような軍縮を行ったならば、むしろ戦争に近づいてしまう(これをゲーム理論によってきちんと示しているのがトーマス・シェリング『紛争の戦略』である)。逆に言えば、軍事が平和を作っているのである。我々は兵士を必要とするし、その犠牲も必要なのだ。

平和運動は、とりあえず目の前から武器をなくすことで、少なくともそれを要求することで、「自分は戦争とは無関係なんだ」という心理的保険をかけているだけである。これは、実際には必要とならざるを得ない軍事と戦争と犠牲の倫理的コストを払うことは拒否しながらも、ちゃっかりと安全というサービスだけはきちんと受け取っているという、虫のいい話でしかない。それは戦争という不可避な問題から目をそらし、思考放棄して逃亡しているに等しいのだ。

世界的に見ても非常に平和な場所で、「戦争の危機が迫っている」と騒ぐのが平和運動である。なんという皮肉であろうか。平和の危機を訴える前に、目の前の平和をきちんと享受するようにいうべきではないのか。それを陰で支えている軍事と犠牲から目はそらさずに。

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