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東京「裁判」というミスリーディング

東京裁判を「裁判」と呼ぶのが、東京裁判をめぐるさまざまな議論の混乱の元凶だと思う。

極東国際軍事裁判は、読めばわかるように「軍事裁判」(=軍律法廷)なのだが、そもそも軍事裁判というのはいわゆる「裁判」とは全く違う。

通常は軍事裁判は自分の軍に対してなすものなのだが、例外的に他国に対しても用いられる。その根拠が

ハーグ陸戦法規 第43条
国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は占領者は絶対的な支障なき限り占領地の現行法律を尊重してなるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為、施し得き一切の手段を尽くすべし。

である。

軍事裁判の目的は「公共の秩序及び生活を回復確保する為」なのであって、犯罪の処罰よりも秩序回復が優先される。

ストレートに言うならば、軍事裁判とは「見せしめによる威嚇」にすぎない。

裁判で処刑される人が国際法上犯罪者であるか否かはさして重要ではなく、秩序を回復できるか否か、がキーになっているわけである。


というわけで、東京裁判はそもそも裁判ではなくて、国際法上認められた見せしめないし報復なわけだから、「東京裁判の判決は正義を実現した」というのも「東京裁判の被告人は国際法上無罪だから処刑されたのは間違っている」というのも誤りである。ともに「東京裁判」が「裁判」だと思っているからこそ成立する議論だからだ。

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