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正戦論の周辺1~ウォルツァーとゲリラ戦について

ウォルツァーは『正しい戦争と不正な戦争』で、ゲリラ戦は民間人保護というユス・イン・ベロの遂行を不可能にするものであることを認めながら、いやむしろだからこそ、ゲリラ側を攻撃することを不正だとする。

したがってゲリラが人々のあいだで戦い、成功する時は、人々のあいだで大きな政治的支持を得ていると想定するのが最上なのである。人民、あるいはその一部は、ゲリラ戦において共謀関係にある。その戦争は彼らの共謀関係なしには不可能である。(p357)

なぜなら、ゲリラが指示を受けていなければ密告されてしまうし、密告を力で防ごうとしても力はゲリラの敵側に分があるので負けてしまうからである。

ゆえにゲリラが支持を集める限り、ゲリラ鎮圧戦は「全住民に対する戦争」(p361)になる。そして、「代替戦略をありえないものにしている民間人の支持の程度が、同時にゲリラをその国の正当な支配者にしている」(p374)ため、ゲリラ鎮圧戦は勝ってはならない不正なものとなる。

しかし、このウォルツァーの論にはいくつか難点があると考えられる。ここでは二点指摘しておきたい。

第一に、ゲリラが住民の支持を得ていない限りゲリラ側は勝利できないという想定は本当なのかという問題がある。ウォルツァーのここでの主眼はベトナム戦争であり、ベトナム戦争については、ゲリラが住民の支持を得ていなかったら敗北していただろうという論は正しいと思われる。だがベトナムの論を一般のゲリラ戦に拡張するにはいくつかのステップが必要である。

ベトナム戦争では、住民は小さな村に住むという形態をとっており、ゆえに住民は全員よく知った関係にある。ゆえにゲリラが紛れ込んだらすぐ気付くし、邪魔ならば追い出したり密告したりも出来る。逆にゲリラ戦が成功するためには村全体にかくまわれねばならない。

だがこのシチュエーションは一般には通用しない。たとえば都市を考えてみよう。我々は、都市に知らない住民が紛れ込んでいたとして、それを的確に指摘できるだろうか。同じマンションでさえ知らない住民がいてもおそらく誤魔化しきれるだろう。だとすれば、都市のゲリラ戦では、住民側が仮にゲリラを支持してなくても、ゲリラを密告することはできない。ゆえに、住民の支持を得ていなくともゲリラは勝利する可能性が十分ある。

ウォルツァーはコミュニタリアニストであるため、共同体に対してはある種の「まとまり」的なものを想定しているのかもしれない。だが都市においてはまとまりなきばらばらな個人が存在しているのだ。

第二に、ゲリラが住民の多数の支持を得ていることと、それへの戦争が不正であり侵略であることとは一致しないことがある。一つのケースとして、多数派の支持する政権が、少数派の人権を著しく侵害している場合がある。この場合、人権尊重と人道的介入の観点から戦争は正当化されうるが、その場合現行の政権は多数派の支持を利用してゲリラ戦を展開するかもしれない。こうした場合には、ユス・アド・ベルムの議論は、人道的介入としては正当化され、住民の正当な支配者という観点から不正とされてしまう。

結局、ウォルツァーは、ユス・イン・ベロの大原則、戦闘員と非戦闘員の区別を維持しえなくするゲリラ戦闘員に対して、どこまでユス・イン・ベロは適用されるべきであるかという議論から逃げている。ゲリラへの住民の支持という議論を持ち出すことで、ユス・アド・ベルムとして不正であるとし、

これまでみてきたように、戦争の理論においてはユス・アド・ベルムとユス・イン・ベロに関する考察は論理的に独立しており、われわれがそのどちらかに拠って下す価値判断が必ずしも同じである必要はない。しかしここではこの二つがひとつになる。戦争に勝つことなどできないし、勝ってはならないのである。(p374)

と言う。だが、ユス・イン・ベロの側の不正というのが「唯一の利用できる戦略が、民間人に対する戦争を含む」(p374)というのでは理由になってない。その原因を作ったゲリラはどうなのか、というのが最初の問題のはずである。この問題が「二つがひとつになる」という修辞により消されてしまっている。

だから、ユス・イン・ベロの維持を不可能にするゲリラは、ユス・イン・ベロの恩恵をどこまで受けれるべきかが論ずるべき課題である。以下ではこれを論ずる。

まず、ユス・イン・ベロの遂行を困難にされたゲリラ鎮圧側はどこまで許容される範囲が広がるだろうか。ここで、民間人を負傷させても許される範囲が「ダブル・エフェクト」論によって規定されていたことを思い出そう。最善を果たした上での誤った民間人の負傷は不正とはみなされなかった。鎮圧側の最善の義務のハードルは敵の対応とは独立に規定されるはずなので、敵がゲリラ戦を採用した場合、正規戦を採用した場合と比べて、最善の義務によって守られる民間人の数は減少する。言いかえれば、民間人保護について同一の努力をおこなった場合、ゲリラ戦ではより多くの民間人が傷つく。鎮圧側は最善を尽くして民間人とゲリラを峻別する義務を負うが、最善を尽くしたうえでの民間人誤射は多発するだろうし、そしてそれは不正とはみなされないと考えられる。

上記の点を踏まえれば、ゲリラを行うことは民間人をより多く危険にさらす戦略という意味において明確に不正である。それはユス・イン・ベロを破っている。

では、ユス・イン・ベロを破ったゲリラ兵士はどこまで敵側のユス・イン・ベロの恩恵を受けれるのか。

兵士の行為そのものが不正であったとしても、ゲリラ戦という戦略体系そのものが組織的にとられたものかもしれない。つまりゲリラ自身は駒かもしれない。そのため、ゲリラであるだけで兵士としての権利は奪われないと考えられる。

しかし、ゲリラ戦を止めるために、ゲリラ兵士は復仇の対象となる可能性は十分ある。ゲリラの捕虜が見せしめとして殺されるかもしれないし、それは通常の復仇よりははるかに不正の度合いは少ないと考えられる。

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