経済学における「均衡」と熱力学・統計力学
アゴラを読んでいて少し気になったので。
安富歩氏が、経済学の「均衡」と熱力学の「平衡」を同一視する誤りが起きていると主張している。
まず熱力学の平衡について
物理学の平衡は大雑把に言うと、「マクロに運動が見られない」という意味だと言ってよかろう。(中略)
大切なことは、物理学の平衡は物質やエネルギーの出入りのない閉鎖系に関するもので、開放系には想定できない、という点である。たとえば生命は開放系であるから、一般に平衡状態を想定した議論は成り立たない。
非平衡開放系で何らかの量が止まっているように見える場合には「定常」状態という。(「均衡概念の危険性について」)
と書いている。これはその通りである。そしてそれに続けて
言うまでもないが、経済社会は生命と同じく非平衡開放系なので、そこで「価格」が止まっているとしたら、それは「平衡」ではなく「定常」である。
新古典派経済学の根本的な問題は、この定常状態に関して、閉鎖系の平衡統計力学風の議論を持ち込んでしまったことである。これはちょうど、人間の体温が一定であるのを見て「平衡」だと思い込み、平衡統計力学の手法を用いて身体の理論を作るのと同じ倒錯した行為である。
と書く。
だが私は「そもそも経済学は、熱力学の平衡の意味で「均衡」という語を用いているのか」という点には疑問である。
新古典派経済学では、個人の利得最大化行動というミクロな原理の単純な集積としてマクロな取引を記述している。だが、一般の三体問題を解析的に解けないことをポアンカレが示したように、物理学ではミクロな振る舞いを単純に足し合わせてマクロな振る舞いを解明することは不可能である。なので平衡統計力学が行っていることは単純なミクロの足し合せとしてのマクロの記述ではない。平衡統計力学は、等重率原理およびエルゴード仮説によって、マクロ変数(正確にはエントロピーの自然な変数)を指定して得たミクロカノニカルアンサンブルには、そのマクロ変数をとるミクロ状態が等確率で含まれることを要請して、これを用いてマクロな平衡状態の性質を分析しているのである。つまり、平衡統計力学で行っているのは、とりうる状態の状態数の数え上げとそれが極大となる状態の分析であり、ミクロな運動の足し合せでは全くない。
要するに、ミクロな数値を単純に足し合せている新古典派経済学は、状態数の数え上げを行っている平衡統計力学と似てはいないのである。
新古典派における「均衡」は、むしろ化学における「化学平衡」などの概念に近いと思われる。
高校で習う価格Pと取引量Xの需要・供給のグラフにおいて、均衡価格は、需要・供給それぞれのグラフ
P=f(X)
P=g(X)
の交点(P0、X0)として求めることができる。ここで行われている計算は、明らかに熱力学や統計力学における「平衡」に絡んだ計算とも「定常」状態に対する計算とも異なっている。これは「化学平衡」の計算により近い。
安富氏は
このように均衡経済学が古典力学を範としている、という話は、経済学説史・経済思想史・新古典派批判などなど、色々な文脈で繰り返されてきた。私自身も、長らくそう信じていた。
しかし、実のところ、新古典派経済学は、古典力学に全然似ていない。というのも、理想化された古典力学系では散逸がないので、安定平衡点を持たないからである。平衡概念が大活躍するのは熱力学・統計力学の方である。
と書いているが、新古典派の分析は熱力学よりも化学に近いのではなかろうか。新古典派の均衡を求めるためのグラフの意味は、「仮想的に」値を変化させた場合釣り合わないという意味であり、熱力学の断熱曲線のような「実際に」変化して通過する状態を表してはいない。新古典派のグラフはせいぜい「連立方程式を解くための補助」にすぎず、実質的な意味はないのである。そういう意味では、連立方程式を解いてつりあいの位置を求める化学の方がより近いのではなかろうか。
(追記:最初は静力学をアナロジーとして用いましたが、化学の方がより適当なので差し替えました)
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コメント
古典熱力学というのは、どのような経路を経ても、一度平衡状態に達したら、その状態に至るプロセスは平衡状態とは無関係ってやつですよね。変化の方向を教えてくれるだけです。
変化中を議論するには確かに反応速度論から化学平衡の議論をする必要があります。どのくらいの時間で、平衡状態に達するかは古典熱力学は教えてくれません。すぐかもしれないし、何十億年も先かもしれないということですよね。
投稿: c-rom | 2010年3月11日 (木) 20時57分
散逸という言葉がでてますが、これは非平衡状態の熱力学ですよね。私自身まだ良く理解できていないですが。実は、反応速度とエントロピーは結びついているようで、熱力学は実に奥が深い学問です。
相対論や量子力学とも関係しているようなんで、宇宙を支配する理論ですね。
投稿: c-ROM | 2010年4月10日 (土) 01時51分