科学革命について 1~客観性の問題
科学における人間的側面から考えてみよう。これについてはクーンとほぼ同じ考えである。つまり、パラダイムを究極的に選択するのは人間だが、それは恣意的であって構わないわけではく、基準を用いて決定せねばならない、科学革命におけるパラダイムの選択には、複数の基準が存在しているが、それはアルゴリズム的ではない、というものである。
パラダイムの究極的決定者が人間であること(クーンはこれを強調した)から、パラダイム選択の恣意性を唱える人は多い。だがむしろクーンの功績は、パラダイム決定は究極的には人間である「にもかかわらず」、科学は信頼に足る実績を構築できると論じた点であろう。
落ち着いて考えてみれば、任意の抽象理念ないし制度は、それを最終的に運用するのは人間である。ということは、その基準に基づけば任意の制度は恣意的に運用されていることとなる(実際そう論ずる人はいる)。だがこれは現実と合致しない。現実には制度の有無は格段な差異を発生させるにきまっている。例を出そう。「原理的には」野球の試合で審判が出鱈目な判定を出し続けることは可能である。だが、「現実には」そんな審判はいない。それは、審判には野球のルールにのっとって判断することが求められていることは、自他ともに自覚しているし、その自覚と暗黙の要求、自己拘束などがルールの体系を維持させているのである。科学もこれと同じで、基準の存在の自覚とそれを遵守することへの暗黙の要求が科学を信頼に足るものたらしめているのである。
なお、クーンはあまり論じていないかもしれないが、科学全体と科学者個人の基準の差は重要だと思われる。科学全体では、パラダイム選択においてアルゴリズム的な厳格な基準が存在するわけではないという点から、「柔らかい」基準で科学は動いているといえる。しかし、科学者個人はそれぞれ「厳格な」基準(もちろん寛容さはあるが、それは科学全体に比べればはるかに少ない)に従っていると思って行動し、そして各科学者同士でわずかにずれている基準が積み重なることで、結果「柔らかい」基準が構築されているといえよう。
そのため、科学の基準の「柔らかさ」を強調することで、科学者個人の持つ基準が「柔らかい」ものになってしまったら、それこそ科学全体の基準は崩壊してしまうだろう。ゆえに、科学全体の基準と個々の科学者が信じる基準との差異は強調されてしかるべきだろう。
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