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憲法論議が封殺する「第三の道」

・改憲派の問題
改憲派の論拠としては、まず「憲法押しつけ論」が挙げられる。そもそも「押し付け」が何を意味しているかが論者によって大きく異なっている感が否めないので、一概に押しつけか否かは言いがたいが、とりあえず日本国憲法がGHQによる検閲下に制定されたものであり、その意味では日本国憲法は「押し付け」であろう。

だが、「押し付け」であるから何なのかと言っておきたい。押しつけであろうとなかろうと、憲法の規定する内容がよい内容ならばよい憲法だし、悪い内容ならば悪い憲法である。したがって、改憲を訴えるならば憲法の内容に関して取り上げるべきであり、制定過程を取り上げるのは関係のない問題を取り上げて議論を混乱させるだけである。

次に、自衛力の確立が挙げられよう。それ自体は首肯できる。しかし現行の改憲派の問題は、それがアメリカとの同盟とセットになっており、それが裏の目的と化している点である。細かくは拙稿で論じてあるので、ここでは何点か指摘するにとどめたい。

対米隷従の状況を妥当な状況として承認する限りにおいて、改憲する必要は見出せないだろう。対米隷従を認めるということは、すなわち日本の防衛を本質的にはアメリカに任せるということである。その状況が妥当ならば、アメリカによる犠牲の要請を拒絶する根拠として九条を擁護することは認められるだろう。日本の防衛が彼らの主張の前提において認められている以上、防衛コストを削減する意味において、九条の擁護には意味がある。ただしこれは、対米隷従を妥当なものとして承認する限りにおいて、という前提の下にではあるが。


そもそも、押し付けの憲法を破棄して主体性を回復しようなどといいながら、その主張自体が裏側でアメリカの指図において行われているという、主体性を微塵も感じられない状況は、完全に自家撞着を引き起こしている。

外交において、アメリカといかなる関係を結ぶかという決断は、日米の対等なる関係において主体的になされるべきものである。にもかかわらず、ただひたすらアメリカの要求にこたえるだけの状況であるならば、それはまさしく日本がアメリカの世界戦略の駒でしかなくなることであり、外交についての思考放棄と主体性の喪失でしかない。


国際貢献もまた改憲の論拠として挙げられる。これもまた、アメリカとの対等な関係を樹立しようとするならば認められる。然るに、アメリカ言いなりの状況を妥当なものとして認めているならば、国際貢献が「国連<アメリカ」の構図に入れられるため、必然的にアメリカ的正義とアメリカ的世界戦略に帰着することとなる。国際貢献の実態がそうしたところに帰結する限りにおいて、国際貢献はアメリカに独自に行わせておけばいいだろう。

犠牲をともなう国際貢献(人的支援)を求める声もある。そこから、人的支援を可能にするため改憲を求めるわけだ。確かに、犠牲を払ってでも他者を助けようとすることが倫理的に崇高であることは認めよう。だが、これは拙稿に絶対平和主義批判として書いたことと同じことだが、法律が人々に倫理的に崇高な活動を求めるのはそもそもお門違いというものである。


改憲派が、対米追従を深めて、アメリカの言うがままにどこにでもいくことを是とするならば、その要求を明示した上でその妥当性を問うべきであろう。ところが改憲派は、表向きは自衛力の正当な位置づけと主体性の回復というもっともらしい理由を掲げるだけで、裏側の真の理由は隠している。彼らの真の理由に忠実であるならば、具体的な外交プランとその実効性も示すべきであるのに、それも黙ったままだ。そうした真の目的を影にやって国民に決断を強要するのは、国民をだましているというほかはないだろう。




・護憲派の問題

国防戦略としての絶対平和主義の有効性が存在しないことは、チベットの絶対平和主義に、絶対平和主義を訴えるものでさえ共感を示さなかったことから明らかであろう。


次に、内田樹の改憲不要論を取りあげよう。彼は憲法の規定(自衛隊の禁止)と現状(自衛隊の存在)との矛盾を受け入れるのがいいのだと主張し、したがって改憲が必要ないとする。然るに、そもそもなぜ矛盾を受け入れるべきかを彼は論証していない。ただ、矛盾を受け入れるものを「大人」、受け入れないものを「子ども」とレッテルを貼って(『9条どうでしょう』p17)印象操作するに終始している。また、彼は岸田秀や加藤典洋を引き(同p28~30)、日本はペリー以来矛盾してきたのだという。しかし、岸田や加藤が言うのは、日本において相対立する二つの側面が存在したことを「矛盾」といっているに過ぎないのに対し、内田の擁護するそれは比喩的ではなく本当の論理矛盾である。

さて規則における論理矛盾は解消せねばならないことは論理学的に導ける。
つまり、規則と矛盾する事態が発生した場合、以下の3通りを迫ることができる。

1 現実を規則に合致させる→規則に従う
2 規則を現実に合致させる→規則を変更する
3 規則を廃棄する→規則がなくなる

のどれかを行わねばならない。

そもそも、このような論証を行うまでもなく、内田の論はすべての法規範を失効させるため、彼の論に問題があることは明らかである。彼は、殺人犯は逮捕されるべきだという法と、犯人が目の前にいるのに逮捕しないという現実との矛盾を受け入れろとでも言うのだろうか。

今度は、長谷部による改憲不要論を見よう。彼の論の問題点は、論点先取りに陥っている点である。絶対平和主義が憲法原理と対立するという主張は妥当だが、その主張は、「だから絶対平和主義をうたう憲法九条を速やかに変えるべきだ」という主張も帰結させる。彼の論は憲法の文言にまったく依拠せずとも成立してしまうという点を鑑みると、彼の論は、憲法はすべて妥当なことしか書かれていない(憲法に問題な記述はそもそも存在しない)、という考えを自明の前提としているといえる。しかし、この考えを前提とするならば、憲法に問題点は存在しないことになり、改憲する必要がないことはその前提から帰結するといえる。結局、彼の論は「もし憲法が今のままならば、自衛隊の保持を認める形で解釈すべきだ」という主張にしかならず、憲法を変えるか否かについての提言は行えないこととなる。

補足しよう。例えば、何らかの人権を侵害するような法律が存在したとする。普通の人ならば、その法は速やかになくすべきだと主張するだろう。ところが、長谷部の発想に基づくと、人権侵害は憲法原理に反するため、「人権侵害するような法解釈をすべきでなく、従って人権侵害をしないように解釈しなおしてその法を残すべきである」という結論が導かれてしまう。しかしこのような主張が現実に通じるとは到底思えない。

法を変えたからといって実態が変わるわけではないという反論も問題がある。上の反論と同様に、その論だと大抵の法は変えることが出来ないだろう。大体、彼の論だと、冤罪被害における名誉回復の形式的裁判も「どうせ君が冤罪だと日本中の人がテレビで知っているのだから」と、被害者の「犯罪者」という汚名を取り除くのを拒否するのだろう。

コストによる反論も問題がある。野党の反対によってかかる審理コストは改憲案が妥当である限り野党の責任に帰せられるべきものだし、国民投票のコストは日本が民主主義国であることを選択した時点で折り込まれているものである。そもそも、国政全体から見たら微々たるものでしかない金額でもって云々言うのは、枝葉末節に固執して議論の全体を混乱させるものに過ぎない。そしてこうした微々たる金は、憲法についての国民的議論の場を設けようとした瞬間に、そのコストとして吹き飛ぶような額だろう。


なお、防衛費を出すことは合理的である。ロールズは無知のヴェールを用いて、たとえ全体の総利益を低下させてでも、最悪の事態に備えるためのコストを払うことは、全員に支持されることを論証した。僕は全員というのは誇張だと思うが、大多数というのはまぎれもなく正しいと思われる。その発想に従うならば、最悪の事態に対するコストの一種である防衛費用は、仮に総利益としてみるとマイナスに傾くとしてもなお支持されることが示されている。


そもそも、対米隷従とアメリカの国連無視を非難する人々が護憲を訴えるというのは滑稽ですらある。日米同盟を支持する一般人の感情は、まさしく日米同盟以外の防衛の対案が提示されていないことに由来するだろう。そしてその対案を作るのを妨害しているのが、自衛隊への信頼を置けなくさせている護憲派なのだ。

また、彼らは国連無視を非難しながら、肝心の国連中心の政治と逆行する内容を持つ憲法を擁護するという矛盾を犯している。国連憲章には

第25条「国際連合加盟国は、安全保障理事会の決定をこの憲章に従って受諾し且つ履行することに同意する
第43条第1項「国際の平和及び安全の維持に貢献するため、すべての国際連合加盟国は、安全保障理事会の要請に基き且つ一又は二以上の特別協定に従って、国際の平和及び安全の維持に必要な兵力、援助及び便益を安全保障理事会に利用させることを約束する

などの項目があり、国連に力を与えていくなら当然こうした行動を守らねばならないにもかかわらず、集団安全保障や集団的自衛権を禁ずる九条を護憲派は固守しようとしているのである。




・提言
改憲論議の最大の問題点は、一般人から見て、与えられている選択肢が不合理な二者択一になっている点である。護憲派も改憲派も、ともに敵の脅威をことさらに訴えることで、自身の主張を正当化することに躍起になっている。護憲派は「歯止めなき対米追従」という恐怖に訴えて護憲を押し付け、改憲派は「現行憲法の防衛上の難点」という恐怖に訴えて自身の改憲案を押し付ける。
しかし、「歯止めなき対米追従」を防ぎつつも「現行憲法の防衛上の難点」を解消できるような改憲案が存在しないことなど示されていないし、我々のすべきこともそうした第三の道を探ることである。護憲派、特に改憲不要論者は、何らかの改憲案に対してそれが対米追従につながると主張するが、そこから導かれるのは護憲ではなくて「よりよい改憲案の模索」である。それを面倒くさがって護憲に流れるのは思考放棄に等しい。改憲派は、現行憲法に問題があることを指摘するが、そこからは彼らの改憲案が必然的に帰結するわけではない。それをひた隠すのは詐術である。


現在の憲法論議は、「正義の称号」をめぐる戦いという側面も有している。

護憲派は、自衛隊の保持を政府に行わせることで、政府の側に「憲法違反」と後ろ指を差され続ける心理的負担、ならびに自身の内側からも起こる「これは違反ではないのか」という悩みによる心理的負担、を永遠に負わせつつ、自身を心理的に見て倫理的な高みに置くという虫のいい行動をとり続ける。一方で、政府に負担と「不正義」という不名誉な称号を負わせることで発生する安全という便益はいただくという矛盾じみた姿勢を護憲派はとっている。心理的負担と不名誉な称号を何者かに押し付けることで成立している現状に対して、「現行憲法でも今のようにうまくいっているのだから、変える必要はないじゃないか」などとうそぶくのは欺瞞以外の何者でもない。

改憲派は、適切な改憲案の探求という当たり前の選択肢を隠蔽し、自衛力を正当に位置付けたいという常識的な要求を利用して、彼らが積極的に認めているわけではない日米同盟に関わる内容をもプラスアルファとして改憲案に盛り込み、承認されているわけでもない内容に正義の称号を与えようとしている。相手の正当な要求を利用して、自分の勝手な要求をも相手が認めたかのごとくして取り扱おうとするのは、詐欺といわずしてなんであろうか。


結局、憲法論議においては、護憲派と改憲派が共謀して、常識的な第三の選択肢が封殺されてきていた。そうすることで、自らの信奉する極端な主張に正義の称号を与えようとしてきたわけだ。しかし、我々の取るべき道は、現行憲法に固執する護憲論と、改憲案に対米隷従のステップをこっそり滑り込ませる改憲論とをともに退け、第三の道として妥当な改憲案を探ろうとしていくことである。

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