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迷走する憲法論議

憲法記念日なので、過去に別の場所で書いた文章をそのまま載せます。(これは2年前のもの)

・護憲派の限界
まず現行憲法九条の絶対平和主義の可能性について検討していく。
この絶対平和主義というのは、「侵略なんてされっこない」というような「平和ボケ」などではまったくなく、相手の侵略にたいしてはデモなどによる徹底した非暴力行動を行うものである。それはつまり、どんなに殴られても殴り返さない、横の人が殺されてもじっと耐えるという、ガンジーのような崇高な思想なのであり、それは多大な自己犠牲をともなうものなのである。

しかし、現実には護憲派はこのような犠牲を引き受けようとしているのであろうか。口先だけでならばいくらでも絶対平和主義などといえるが、実際は自衛隊とアメリカに守られており、そのリスクを負っていない。例えば、愛敬浩二は絶対平和主義を標榜するとしながらも、護憲の現実性を語るときに、完全な絶対平和主義のみを想定し、あらゆる軍隊を廃棄するよう考えることは、護憲の範囲を不当に狭く扱っているという。そして、護憲派がこのように絶対平和主義を主張し続けたからこそ、日本の軍拡はこの程度で済んでいるのだから、九条には価値があるという(『改憲問題』参照)。要するに、こうした「絶対平和主義者」は、「実現することはないのだから、何を言っても平気」という状況に陥っており、九条は自身の政府批判政治運動に都合がいいから残しておこう、といっているに過ぎない。これでは、現実に国民を、国家をどうするかといった問題を完全に放棄しており、憲法をただの政府批判の道具としかみなしていない。

そして、絶対平和主義というのは、それは自己犠牲を伴うものである。つまり、自身の身体を傷つけられる可能性を十分に含むものなのである。
しかし、国家というものは国民を保護するためにあるのであり、九条や絶対平和主義を国家が掲げることは、国防の義務を国家が放棄し、国民の生命を危険にさらすことである。一言で言えば、国民の基本的人権を侵害しているのである。そのため、絶対平和主義はたとえ国民の過半数が支持したとしても、一人でも反対しているのであればそれを国として実行することはできないものなのである。

また、近年の護憲派の主張として、九条の「美しさ」的なものに着目したものも見られる。この美しさは、絶対平和主義という崇高な精神の明示という意味であろうが、こうした倫理的崇高さは法とは相容れないものである。
倫理というものは「個人がいかに生きるか」を考えるものであり、一方法というものは「社会をどうするか」を考えるものである、両者は重なる部分もあるが、基本的に異なるものである。そして、倫理というものは自発的になすからこそ倫理的崇高さは意味を持つのであって、倫理的善というものは他者にたいして強制してはならない。一人一人がよき生を目指すのと、多様な個人の集まりである社会をどうよくするかとでは、本質が異なるのである。
そして、憲法は法の側であり、絶対平和主義は倫理の側である。ゆえに、どんなに倫理的に崇高で正しいことであっても、それは憲法に書かれることではない。これは、「右のほほを殴られたら、左のほほを差し出せ」という思想が崇高だからといって、憲法に書き込むことがいかにおかしいことかを考えれば明らかである。


そこで、こうした実態を踏まえた上での憲法解釈と護憲を提起しているのが長谷部恭男である。彼の論は、先に見たように絶対平和主義は人権と対立するため、九条は「準則」ではなくて「原理」と解釈すべきだとする。「準則」というのは、例えば駐車違反のように答を一義的に定めるものであり、一方「原理」というのは、例えば表現の自由があるからといって、プライバシーを侵すような表現は認められていないように、一定の方向性を示したに過ぎないものである。そのため、現行憲法下でも最低限の自衛力の保持は認められており、憲法改正は必要ないとする。(『憲法と平和を問いなおす』参照)

憲法解釈それ自体としては、長谷部解釈は妥当だと考えられる。しかし、それだからといって、直ちに改憲の必要性を失うかというと大いに疑問である。
まず、現実には九条が絶対平和主義の記述であると考えている人が多々いる。長谷部は、憲法解釈は最終的には憲法学者に委ねられるとしているが、先に絶対平和主義者としてあげた愛敬もまた憲法学者である。そして政府が意見を聞かねばならないのは憲法学者のではなくて国民の意見である。多数の国民が誤解しているのならば、政府としても憲法で認められている自衛力の行使にも及び腰にならざるを得ない。下級審とはいえ自衛隊違憲判決が出たこともあり、自衛隊を憲法違反とする政党が国会に議席を持つ実態を省みれば、長谷部の容認している自衛力の保持を明記するための改憲にも必要性があるといえるだろう。


・改憲派の限界
そのため、改憲それ自体は必要だと考えられる。
しかし、問題はそれを今おこなうことがタイミングが悪すぎるということと、選択肢が少なすぎるということである。
現在の改憲派は、その目的が対米追従の強化にあり、これはイラク戦争におけるイギリス軍のように、国防とは関係のない外国で日本人の血を流すことを要求するものである。そうしたような、アメリカの言いなりになる親米は必要ない。親米派の岡崎久彦は、日本が安泰だったのは歴史的に見て日英同盟と日米同盟の期間であり、新米は小さな失敗はあるだろうが、大失敗は犯さないとしている。(『戦略的思考とは何か』参照)しかし、まず日英同盟と日米同盟について言えば、要するにその間の第二次大戦期が大失敗だったということであるが、日英同盟は日米の利害対立の前にして早々に破棄させられており、日英同盟は日米の対立において安泰に日本をすることが出来なかった。つまり、日英、日米同盟は、それを結んだから日本が安泰だというよりも、日本が安泰だったから大国と同盟が結べた、という側面の方が強いと考えられる。次に、大失敗を犯さないといっても、それは第二次大戦のような大失敗なのであり、逆にアメリカの傭兵として確実に小失敗を重ね、成功の機会がないのも十分な失敗であり、国益にも反する。対米追従をしなくとも、例えばフランスとアメリカが戦争になるはずがないように、露骨な超反米を標榜しなければ大失敗は回避できる。
よって、アメリカの尖兵として日本人が死ぬことはやむを得ない犠牲だとはいいがたい。そこで、日本の選択としては武装中立が妥当だと考えられるが、現実には憲法をそのようにするのは難しい。民主党案では国連を持ち出して、そうした場合のみ自衛隊を海外に送るとしているが、イラク戦争ではアメリカは国連決議を根拠として攻撃しているため、民主党案ではイラク戦争の前線に自衛隊を送り込むことは行われうる。しかし、だからといっていかなる場合にも海外派遣しないとしてしまうと、他国がどんなに苦しんでいても自国さえよければいい自分勝手な国家とみなされてしまうだろう。

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