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政治において国民に求められる判断とはなにか

政治において求められる判断というのは、国益や人権の理念等の判断材料をもとにして、有限の資源をどのように配分するか、そしてどういう政策を実行するか、を合理的に考えるものである。

ここにおいて主体として立てられているのは一個人ではなく、あくまでも集団全体である。我々の判断も、自分自身の視野ではなく、「集団全体のことを考えるとどうなるか」という基準で判断されねばならない。

そして、自分自身の感情と、集団全体の合理性とはしばしば衝突する。たとえば、自分自身は税金を払うのは嫌だが、集団全体で見たら税金は明らかに必要である、などというのがそれである。このような場合には、我々は自分自身の感情に基づくのではなく、集団全体の利益を合理的に考えて決断を下さねばならない。この程度のことは分かっているという人は多いだろうが、この感情の問題は実はもっと根深い。


さて、人間というのはすぐれて非合理的な判断を下す生物である。このようなことは心理学や脳科学、あるいは行動経済学などによって明らかにされている。
ただし、ここで人間は非合理的判断をやめて合理的な生活を送るべきだ、といいたいわけではない。むしろその非合理性こそが人間を人間たらしめている側面がある。

だが、政治となると話は別である。
集団的意思決定においては、我々は合理的判断を求められる。人間の判断が非合理的である以上、これは非常に非人間的判断を求められているといえる。そして問題は、判断が感情に基づくならば、仮に集団の視点に立ったとしてもなお、我々は非合理的な判断を下しがちであるという点である。この例としては、「アフリカの今にも死にそうな子供たちへの寄付」よりも「心臓移植の手術を受けさせるための○○ちゃんへの寄付」の方が、人々が協力しがちであるという事実などがあげられよう。

我々が政治で求められているのは、「誰がかわいそうか」などといった暖かい感情ではなく、「誰を助けることが最も目的を達成させるか」という冷たい計算である。

もちろん、目的を皆が共有し、冷たい計算を踏んだとしてもなお意見は分かれるだろうし、議論によっても解決できなかったならば、最終的には多数決により決まることだろう。しかし、民主主義における多数決というのは、そもそもすべての人が「目的を達成するための合理的思考とそこから帰結する意見」を保有しているのを前提にしたうえで、その「集団に関する理論的・合理的判断の不一致」に対して集団的意思決定をするためのものであり、「非合理的感情の不一致」を多数決で決めたところで、それは民主主義の理念と一致しているとは言い難いのである。


日常生活では非合理的感情に基づいて行動していて何の問題もないが、投票という政治参加の場においては、我々は合理的で冷たい判断を求められるのである。そしてこの冷たい計算の訓練こそが、政治教育においてもっとも必要なことではなかろうか。

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