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戦争体験者の死滅

戦争体験者が死亡し、戦争体験者がいなくなることは世間一般では「よくないこと」だとされているようだ。もちろん人が死ぬことはよくないことだが、逆に言うとそれ以上の意味で、つまりまさしくその人が戦争体験者であるがゆえに、よくない、ということは本当にできるのだろうか。

戦争体験者の証言や感情はしばしば絶対視されがちだが、体験者はまさに体験者であるがゆえに局所的な視点しか持ちえず、俯瞰的に物事を眺めることができない。もちろんそれは仕方がないことだが、それは俯瞰的かつ客観的に事実を分析しようとする学問的営みにおいてはむしろ障害物となる。狭窄した視野を絶対化させ、「かわいそうな被害者」などの感情に訴える演出を取り入れることは、イデオローグとしてはそれでもいいのかもしれないが、学問の観点からすれば理性的分析を阻害するのだからこの上ない妨害である。
無論戦争体験者の証言は史料として非常に重要であるが、重要なのはあくまでも証言なのだから、極論すれば録音しておけば体験者本人は不要である。
そして体験者本人の訴えがいかに我々の感情を揺り動かすか、すなわちいかに我々から理性的分析を奪うかは、過去の歴史論争のケーススタディを見れば明らかである。もちろん歴史家がそうした体験者や世間の声を雑音として無視し、冷静な分析を営んでくれるのならば希望はあるが、むしろ実際に起きているのは一部歴史家自身が体験者をアジテートし感情のフィールドへと引きずり込むことである。とすれば、歴史を冷静に分析し記述するためには、その体験者がすべて死滅するのを待つより他ないのではなかろうか。

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