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マクロ経済学における動学モデルの不遇

古くなったが、『現代思想09年8月号 経済学の使用法』を読んでみたのだが、なんかいろいろひどい。東大の経済学の教授の吉川洋氏が「いま経済学に何が問われているか」という論文を、上智の経済学の教授の平井俊顕氏が「経済学はいずこへ」という論文を寄せているが、経済学の観点と科学の観点と双方からなんか引っかかるところが多い。
まず吉川論文から。

実際、二〇〇八年秋から深刻化した金融危機、世界同時不況の下で正統派の経済学は何もいうべきものを持たなかったのである。(p83)

正統派の意味はよくわからないが、本文の流れを読む限りとりあえずマクロ動学モデルを用いている経済学者としておいていいだろう。で、アメリカでも日本でも、そうした経済学者は今回の金融危機に積極的に発言していたと思うのだが。例えばBarroの記事はこれに当たるだろうし、ケインズ派の人びとが持ち上げるKrugmanだって動学モデルを用いている。もちろんKrugmanは金融危機に積極的に発言している。

そもそも金融市場は「効率的」に機能するはずではなかったのか。不況も失業も過去のものになったはずではなかったのか。(p83)

そもそも不況も失業もなくなるなんて言っている経済学者を見たことがないのだが。


しかし実は多くのミクロの構成要素からなるマクロの系(システム)を分析するときには、ミクロとはまったく異なる統計的な分析方法(典型は「統計力学」)を用いる、というのが物理学のみならず化学、生物学、生態学も含めた自然科学の諸領域に共通した「常識」なのである。(p83~84)

統計的な分析手法を用いているのは事実だが、統計力学では当然のことだが粒子等のミクロ的な性質を利用している。統計力学はあくまでもミクロ的な性質とマクロ的発現をつなげる学問であり、ミクロ的性質抜きには始らない。だから「マクロ経済学を「ミクロ理論」の上につくり上げる」(p83)というのは全く正しいのである。せっかく統計力学を持ち出すならもう少しきちんと持ち出してもらいたい。

次に平井論文に移ろう。

数学の場合、それは誰の目から見ても納得のいく「公理」からその厳密な演繹性はスタートする。「新しい古典派」の場合、それは誰の目からみてもそのような行動をすることが考えられない経済主体を措定することから理論はスタートする。(p88)

数学の場合、それは誰の目から見ても納得のいく「公理」からその厳密な演繹性はスタートする」。そんなわけがない。数学の公理は正しいとか正しくないとかいう話ではなく「それを正しいとしよう」として決めたという意味である。大体非ユークリッド幾何学とか「誰の目から見ても納得のいく「公理」」ではないではないか。
いや、恐らくここで平井氏が言いたかったのは「数学」ではなく「物理学」における「公理」の話だろう(全然違うけど)。だがその場合にしても、「公理」は「そこから導かれる内容が自然現象と合致するか否か」が重要なのであり、「公理の自然さ」は重要ではない。例えば有名な教科書であるランダウ・リフシッツ『力学』は、最小作用の原理という直感的でも何でもない原理を「公理」として認めることで美しく議論を展開している。繰り返しになるが、重要な点は公理から導かれる予測が現実と合致することであり、公理自体の自然さはどうでもいいのである。ゆえに

だが、非現実的なミクロ的経済主体の最適化行動に依拠して演繹的に導出されたマクロ・モデルは、そもそも現実との実証的有意性を検証するうえで、どのような意義をもつのであろうか。(p89)

と平井氏は問うているが、結論が現実と妥当するモデルならば、公理が反直観的であってもいいのだから、この批判は的を外している。ここら辺に不自然な自然科学への憧れを見たくなるのは私だけだろうか。

あと、平井氏の動学モデル理解は、「非自発的失業を否定し、完全雇用を当然視する前提のもと」(p86)「経済政策の無効性命題」(p88)などとつなげて考えられているが、これは不自然さを誰もが認める初期のRBCモデルについての理解ではなかろうか。RBCモデルは、加藤諒『現代マクロ経済学講義』では「ピザの生地」というアナロジーで説明されている。つまり、ピザ生地自体はおいしくない(非現実的)が理論を組み立てる土台として必要なものであり、そこにさまざまなトッピング(現実的な仮定、賃金の下方硬直性、情報の非対称性、摩擦的失業など)を組み込むことで現実的なモデルになるのである。ピザ生地がおいしくないことをもって「ピザはおいしくない」と評するのが不当であるのと同様に、RBCモデルの非現実性を持って「動学モデルはダメだ」と主張するのは不当であろう。
そして結局筆者はネオケインジアンを批判してオールドケインジアンを持ち出してくるのだが、「じゃあルーカス批判はどうかわすのさ」という点についてただの一言も触れていないのは問題だと思うのだが。

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