土佐弘之『安全保障という逆説』~国家安全保障の制度的思考に意味はあるか
さて前の記事でも取り上げた土佐弘之『安全保障という逆説』についてだが、要するに本書の要旨は「国家という制度的思考そのものが国際政治の本質を見えなくしており、制度的思考そのものを乗り越えることが必要だ」ということであろう。
さてではなぜ国家という制度的思考が無効化してくるのだろうか。筆者の主張を簡潔にまとめると
・主権国家の枠組みに収まらないアクターが増加している
・主権国家の枠組みから排除された人々への配慮が全くない
という二点に収斂するだろう。この二つの主張は、本書に限らず、多くの国家批判で取り上げられている論拠であろう。
だが、この二つからは全く別の結論を引き出すことも可能である。国家に収まらないアクターが増加し、国家の地位が相対的に低下していくならば、国家による排除という問題は問題としての地位も低下し最終的には消滅するということになる。なぜなら、国家による排除が問題なのは、国家が唯一絶対の判定基準かつ救済主体でありながら、そのせなばならない救済を実行しなかったという点によるものだが、国家がアクターとして地位を下げていくということは、国家以外の救済責任が増大していき次第には国家からその責任を奪い取るほどになるということであり、また判定基準としては無効化するということだからである。言ってしまえば、「力のない奴が何をわめこうと脅威ではない」という話である。そして、このような観点から眺めた場合には、国家に対して何も批判する必要はなく なってしまう。
主権国家に収まらないアクターの増加は、(それが事実だとしても)だから国家はダメだという結論が常に導かれるわけではない。反対に、だからより国家を維持するようにしなければならない、という結論も導きうる。筆者はこれをバックラッシュだとして批判するが、このような見方が妥当ではないとして退けられるためには、結局国家そのものの妥当性、及び国家以外の体制の可能性を考えねばならない。
この点については、二番目の国家による排除の問題をその論拠として提出しうる。本書では難民やグローバルな社会運動などがその排除された例として挙げられる。
排除の問題では、具体的な名称(上記の難民のような)を挙げる場合と、抽象的に「国家から排除された存在」を指摘する場合がある。さてまず後者についてだが、これは(本書ではとられていないが)多くの本で見かけるロジックである。だが、「国家に排除されたものは救済されない」というのは「排除されたものは排除されている」と言っているだけであり、ただのトートロジーである。ゆえに、具体名を挙げない限り、原理的排除の問題は本質的な意味をなさない。
ということで前者に移ろう。確かに難民などは現在においては排除された存在である。だが、同時にこれは原理的に排除されているわけではないので、国家的に
これを取り込む形で救済の手を差し伸べることで解消できる。「包摂は新たな排除を作りだす」というのは確かにその通りだが、すべてを包摂しつくすことがそもそも不可能である以上、漸進的な解決が最も妥当性が高いし、事実これまでの歴史は女性や黒人をそうして包摂してきている。
筆者は国家におけるメタ外交を「境界(再)設定」(p119)にあるとし、国家は境界を越えたヒューマニズムと相いれないとしているが、その境界の再設定により、境界外的なものを境界内に取り込むという形での解決もまた存在するのだから、必ずしも相いれないわけではない。境界の存在は、国家がシステム的に
機能して救済に当たれるためであり、それは緩やかにしか変更しえないが、しかし同時に完璧に固定的なものでもない。ゆえに筆者の期待からは十分ではないの
かもしれないが、少なくとも国家制度でも一定の救済にはなりうるのである。
もちろん、国家制度ではないより十分な救済の構造が存在し、そちらを採用すべきだという主張ならば傾聴すべきであろう。だが、筆者はそのような対案を提出するわけではない。筆者はただ相手の認識が限定的であることを繰り返し批判するのみである。
そしてこの辺が、「社会的構築主義は言葉遊びである/力を持たない」と言われるゆえんではなかろうか。国際関係論の研究者は国際関係を分析対象としているが、社会的構築主義者は国際関係論の研究者自体を分析対象としてしまうために、国際関係論の研究者への批判としては有効かもしれないが、国際関係に対する有益な提言や対案の提示を行うことはできない。そしてそもそも分析対象が異なるために、議論の土台が一致していない。
社会的構築主義者は「(国際関係論の研究者や政治家を)批判し続けることに意味がある」というかもしれない。だがしかし、この話では「批判する人/批判される人」という構造は固定化されており、実際に提言したり実行したりする人は永久に批判され続け、社会的構築主義者の側は永遠に批判する側という高みに立
ち続けることが出来る。彼らは批判される人の提言や実行によって多くの便益を得ておきながら、なおかつ相手が「完璧でない」ことを理由に批判し続け、提言
や実行による負の部分についての倫理的責任のみを逃れている。しかも「完璧」が存在しえない以上、彼らは「倫理的優位に立ち続けながら利益のみ貪れる」と
いう虫のいい構図が永久に成立するのである。
こういうと、「いや、社会的構築主義者も行動を起こしている」という人がいるかもしれない。本書でも紹介されていた「女性国際戦犯法廷」はその一つの例となるだろう。だが、やっぱりこれも他者(昭和天皇)を批判することしかしていない、という点を置いておいても、この法廷は大きな欠陥を抱えている。むしろこの欠陥こそが社会的構築主義の根本問題を表している気がしているが、その点についてはまた別の機会に記す。
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