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バックラッシュ批判の構造問題

多くの言語論的転回を受容する人々(社会的構築主義者)の議論、例えば金森修『サイエンス・ウォーズ』、土佐弘之『安全保障という逆説』、上野千鶴子等共著『バックラッシュ!』では、彼らの批判する本質主義的な議論を「バックラッシュ」として強く批判されている。だが、落ち着いて考えてみると、こういう形での批判は自己論駁的ではないかとの感が否めない。


バックラッシュというのは「反動」ということだが、同時にこれはネガティブなイメージ(レッテル)として用いられている。つまり、「最新の発想=正しいも の/古い発想=捨てられるべき誤ったもの」という構図を前提としたうえで、自分たちは「最新=正しい」の側にあり、本質主義者らは「古い=誤り」の側にあ るというのが、「バックラッシュ」という批判の前提にある。

だが、もともと社会的構築主義は「現実」の認識を絶対視する発想を批判したはずであり、「現実=最新」をそれによって正しいものとしてしまう構図はまさに 自分たちが批判したはずの過ちを犯していることになる。「現実は世界の認識方法によって変化する」というまさに自らのテーゼは、「社会的構築主義という最新(最も現実的)の世界認識方法の絶対化」という自らの行いにも降りかかるのである。

これは「特定の枠組みでしか世界を見れていないことの無自覚性を批判しているはずの社会的構築主義者が、自ら特定の枠組みに閉じこもって批判している」という点もそうなのだが、「バックラッシュ」という批判をしてしまうのは、それに加えて「今はこれが現実的なのに、いまだに古臭い捨てられるべき発想にこだわって。。。」というまさに現実主義・本質主義とほとんど同様の構造に陥っているあたりで二重に致命的である。

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