公的意思決定の問題と小さな政府
池田信夫blog「政治の最小化」という記事に、以下のような記述がある。
公的意思決定は経済学でも厄介な問題で、センは半世紀にわたる研究の結果、一義的な社会的意思決定を放棄し、多様な基準の中で相対的にましな状態を試行錯誤で選ぶしかないと結論している。個人の意思を投票で集計する民主主義には本質的な欠陥があるので、必要なのは公的意思決定をなるべく政治にゆだねない制度設計である。
最近、「ネットで直接民主主義を実現する」とかいうくだらない議論があるが、重要なのは政治に参加することではなく、政治が個人の生活に干渉する領域を最小化することだ。ポズナーも指摘するように、人生には政治より大事なことがたくさんあるのだから。(強調ママ)
確かにセンはどの場所でも使える集団的意思決定の集計方法を否定しているが、だからといってこれは個人の自由裁量権を広げればよいということではなかろ
う。センは「自由主義のパラドックス」で示しているように、個々人に自由裁量権を与える場合にもやはり問題が発生することを示しているし、そもそもの土台
として「ある人が自由に決めることが出来る」という決定方法自体が一つの公的意思決定の方法なのである。
センは結局、自由主義のパラドックスの解決では、各人はどの程度自由に決める領域を持つか、については道徳感・慣習のようなものを持ち出さざるを得なかった。公的意思決定の前提には一定の正義が必要とされるのである。しかもその正義の選択そのものは、公的意思決定の方法を用いることが出来ない。
自由主義を含めた一元的な公的意思決定の方法には欠陥がある、それはその通りである。しかし、だからといって政府を小さくすればその問題が解決するわけで
もないし、それが唯一の解決策でもなかろう。民主主義の限定のための立憲主義(長谷部『憲法と平和を問いなおす』)という方法もあるし、司法府の強化(井
上達夫『現代の貧困』)もありうる。官僚制の強化も民主的決定の領域を減らすという意味では一つの方法になりうる。結局のところ、公的意思決定の前提部分
の正義として何を採用するかにかかっており、「人々は他人から干渉されないのが最も良いことである」という前提を採用すれば小さな政府が帰結するが、それは前提としてそのような正義を採用したからであり、公的意思決定の欠陥を乗り越えられるからではない。
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