論理と感情は二項対立関係か
論理と感情はしばしば二項対立的に捉えられる。例えば「人間は論理ではないのだから」などのテーゼには、そうした前提が潜んでいる。だが、論理と感情は二項対立的というよりも、むしろ次元の違う内容を比較してしまっているのではないだろうか。
感情というのは、単純に「~したい」「~は楽しい」「~は嫌だ」といった一つの感覚である。ここにあげた例ほど簡単ではない複雑な感情でも、本質的にはすべてそうである。なので、感情は「人間の行動・判断に対する動機付け(モチベーション)」である。
他方、論理というのは「AだからB」といった、正しい結論を導くための規則である。やや難しくいいかえると、論理とは「「何が正しいか」を決定するための唯一の方法」だということである。いかなる主張も、論理以外の方法では正当化されえない。
ここで注意してほしいのは、論理以外の方法では「正当化」は不可能だが、「説得」は十分に可能であるという点である。この区別を明確にするために、
・議論:何がより正当なものであるかを探求する作業
・説得:自己の主張を相手に同意させる作業
の二つをきちんと分けておこう。議論と説得の大きな違いとして、議論では自分の主張が正しいかどうかはわからないし、皆で批判し合うことによってより正当性の強い主張へと進化できるのに対し、説得は自分の主張の正しさが前提とされており、説得の作業によって主張がより正当なものになることは期待できない、という点がある。端的にいえば、議論は建設的だが、説得は相手にイエスと言わせる(そして協力を引き出す)だけだということである。
さて説得についての話に戻そう。「説得」はただ相手にイエスと言わせればいいので、理性に訴えるのみならず感情に訴えてもよい。どういう訴え方
が最も合理的かは説得する相手に依存するが、もし説得相手が理性的でない人間ならば、感情に訴える方法が最も「合理的」であるといえる。この場合、目的が
「相手にイエスと言わせる」だから、その目的に対して「論理的に」考察することで、説得方法として「感情」が選ばれているのである。
こうやって考えてくると、会議における「論理」と「感情」の位置付けは必然的に定まる。まず会議の目的を「よりよい案を出す」のか「相手に賛同し
てもらう」のかで分けたうえで、前者ならば「論理」のみでなければならないし、後者ならば必要に応じて「論理」と「感情」とを使っていけばいい、ということになる。
前者のような「よりよい案を出す」会議において、説得作業を開始し、感情に訴えるような論法を用いる人がいたとしたら、それはその会議を「よりよい結論を出す」ためにではなく「自分の主張をともかく押し通す」ために用いていると言わざるを得ない。「議論」においては、自己の主張は論理においてのみ武装されえて、それ以外の、例えば感情に訴えるような方法は用いられてはならない。
なぜそういえるのか。それは、それが議論のルールであり、議論に出席している以上そのルールに服する義務があるからである。議論においては人々は「自分の主張が正しいこと」を主張しているのだから、「なぜ正しいのか」が主張の根拠とならざるを得えない。ところが感情は「動機付け」、つまり人間心
理に関する一つの「事実」にすぎず、「事実は価値を生み出さない」という有名な命題により、感情は主張の正当化をしないのである。
ただし注意してほしいのは、感情を一つの「事実データ」として取り扱うことは何ら否定されてはいないということである。例えば「学生はどう行動するか」の推論において、「どのような心理のときにどう行動するか」、という感情に関するデータは当然ながら主張を補強しうる。
そのため、議論においては主張とその根拠等について、きちんとその論理構造の把握がなされる必要がある。具体的には
・因果関係、目的―手段の関係あるいは主張―根拠の関係の構造(BはAを達成するための手段であると同時に、Cによって達成される目標でもある、のような)の把握
・個々の語について、それらが複数の要素を含む場合には、それらの意味(定義)の分析
・二つ以上の似たような語の意味について、それが同値関係か、包含関係か、あるいは独立か、などの明確化
・批判をする場合は、どの論理関係に対する批判なのかの明確化
などを自分の頭の中できちんと整理して把握する必要がある。基本的に何らかの主張を行う本はすべて論理的な構造をしているので、ある程度難しい本をたくさん読めば、論理構造の把握は出来るようになるだろう。
なお、きちんと把握しきれなかったと思った場合には、自分が行えた範囲での理解を述べたうえで、相手に自分の理解と相手の真意とのズレを再び説明してもらうことになる。
最後に。「確かに議論は論理に基いてされるべきだろうけど、それでも人間は感情で判断したくなるものだよ」という思いはあるだろう。しかし、だとするならば感情をきちんと抑え込む練習をしてから議論に臨むべきであろう。ルールは人間の自然な感情に逆らっているからこそ存在する(自然に守られるなら ルールなど不要である)のであり、それが守れるからこその議論なのである。
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