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死荷重・サービス業・免許

なんか「弁護士費用は死荷重だ」「弁護士は免許ではなくて資格で十分」といったことで池田信夫氏と小倉秀夫氏の間で論争が起きているようである。

さて、この論争において、池田氏は二つの異なる主張を行っているように思われる。

第一のものは

@lawyer_atom 法務コストは社会的なdeadweight lossで、生産性はマイナス。法的な紛争がなくなるように制度設計するのがベストだが、発生する場合はなるべく低コストでやることが望ましい。そういう非生産的な仕事の報酬が高いのは間違っている。(http://twitter.com/ikedanob/status/9050882037)

弁護士も同じである。民事訴訟による賠償はゼロサムの所得移転で、弁護士費用は誰の得にもならない死荷重である。もちろん、これは弁護士が不要だという意 味ではなく、法的な紛争解決を円滑に進めて法務コストを減らす制度設計は重要だ。そのためには弁護士免許を廃止して資格認定にし、ADR(法廷外紛争処理機関)によって「司法の民営化」を進めることが望ましい。「学歴から資格へ」

といった、そもそも弁護士という仕事そのものに対する意見である。

一つ一つ順々に確認していこう。まず「deadweight loss(死荷重)」は「完全競争市場における均衡点と違う価格で実際の取引が行われているために、社会全体から失われている余剰分」ということである。比較は「完全均衡」と「現状」に対して行われ、死荷重というのはこの二者の差である社会的な損失を指している。
なので、小倉氏が

ところで、「法務コストは社会的なdeadweight loss」って、「deadweight loss」という概念を勘違いされていませんでしょうか。「社会的なdeadweight lossって何?」

というように誤りというわけではない。あくまでも(現実にはあり得ないが)「すべての紛争が自動的に解決する状態」と「弁護士が間に入って解決させる状態」を比較してのロスを述べているだけである(弁護士が免許によって均衡より高い価格設定になっており死荷重が発生するという点は後述)。
ただし、これはすなわち「弁護士はサービス業であり、何かモノを生産する仕事ではない」という指摘ということになるが、これはあまりにも当たり前であり意味がない。それをいったら経済学者も金融業も何もモノを生産していないから死荷重であろうし。

ちなみに、「弁護士費用は誰の得にもならない死荷重である」というのは誤っている。弁護士費用それ自体は依頼者から弁護士への所得移転であり、弁護士という仕事そのものに対する死荷重は「弁護士が弁護士としての活動ではなく他の生産活動をしたら得られたであろう社会的利益」の方である。仮に弁護士がお情けで無料で弁護活動を行おうが、ものすごく高い依頼料をふっかけようが、所得移転が起きるだけで死荷重は同じである。

さて、池田氏の第二の主張は

藤沢さんの記事に話を戻すと、医師や弁護士の所得が高いのは労働生産性と関係なく、免許によるquasi-rentだから、こういう定型的な業務に偏差値の高い人がつくのは社会的な浪費。ギルドの伝統がない旧共産圏では、医師や弁護士の賃金はブルーカラー並み。(https://twitter.com /ikedanob/status/9050005137)

といった「弁護士は免許で守られているので不当に依頼額が高い」というものである。
弁護士への依頼額が高いことによる社会全体にとっての弊害は、上記のツイートや

医師や弁護士の所得が高いのは、免許制度で供給を制限していることによる準レントで、彼らの労働生産性は低い。医師の仕事の大部分は定型的な診察業務で、もっとも偏差値の高い学生が医学部に行くのは社会的な浪費である。弁護士に至っては、フリードマンも指摘したように免許で規制する理由は何もない。本人訴訟が誰でもできるのに、代理人に免許が必要なのは論理的におかしい。「職業免許の「仕分け」を」

で指摘されているように「優秀な人材が高い給料に引かれて、生産性の高い仕事ではなく弁護士業に来てしまう」という点である。
しかし、ます浮かぶ疑問として、池田氏の擁護する「偏差値の高い人」というのは要するに「型にはまったテストで高い点を取ることのできる人」だが、こういう人は「創造性豊かに新しいものを開発する仕事」より「型にはまってマニュアル通りのことを的確にこなしていく仕事」の方が得意であろうから、必ずしも能力の高い人の浪費とは言えないのではないだろうか。
なお、小倉氏は

実際には、医師や弁護士のように個別の案件に一つ一つ対処していかなければならない業務の場合、個々の案件の違いを見抜いてこれに対応させ、また、しばしば生ずるイレギュラーな事態にもその都度適切に対処していかなければなりません。それに、弁護士の場合、様々な手がかりを集めて相手の嘘を見抜いてそれを裁判官等の判断権者にアピールしていかなければいけません。そのような対処を適切に行わなければ、医師の場合は最悪の場合患者が死亡することになりますし、弁護士の場合は本来依頼者が負わなくともよい負担を背負い込まされることになります。この点、モデルを用いた単純な思考で事が足り、不都合な現実には目をつぶることが許される経済学者とは業務の質が異なるのです。「イレギュラーな事態に目をつぶることが許されない医師と弁護士の仕事は経済学者の仕事ほど単純ではない」

と述べているが、池田市の主張はイノベーションを引き起こすような開発者・経営者との対比をイメージしているであろうから、少なくともその意味においては弁護士等の方がマニュアル的というのは妥当であろう。実際弁護士の仕事の大半は極めて手続的なものであるし(法廷ドラマのような仕事はきわめてまれ)、どんなにイレギュラーな事態であっても、最終的にはマニュアル的部分に帰着させざるを得ない。もちろん、コミュニケーションや駆け引きの能力は必要だが、それはどの仕事も同じである。

次に、非生産的活動だからと言って必ずしもそこまで能力の高くない人を当てておけばいいという話ではない。例えば経済政策の決定を仕事とする政治家は何も生産していないので、その意味においては社会的損失だが、しかしだからといって経済政策を決める人間の能力が低くてもいいとは池田氏自身まったく考えていないことは、池田氏が菅財務相を大学1年レベルの経済学も知らないと批判している(つまり財務相には少なくとも大学レベルの経済学の能力を有することを求めている)ことからも明らかであろう(「乗数効果を知らない財務相」)。経済政策の間に入る人間に高い能力を求めるのと同様に、紛争解決の間に入る人間にある程度の能力を求めるのはそこまで不合理ではない。もちろん、そこまで高い能力がなくても紛争を解決できるようなシステムというものが存在するのならばそれに越したことはないが、私には能力の低い弁護士でもきちんと紛争解決できるようなシステムというものをまったくイメージできない。

さて、免許制度そのものの価値としては、いい加減な人間をその仕事から排除しておく、そうしないと一般人がいい加減な人とまっとうな人を見分けることが出来ない、という点が挙げられる。ただし、あらゆるシグナルをなくしてしまうと、一般人が弁護士の腕を判断する材料がなくなってしまうがゆえにさまざまな不都合が生じる、という点は池田氏も認めている。なので池田氏は

要するに、免許制度は現代のカースト制度なのである。ただし、それはまったく無意味な制度ではない。Milgrom-North-Weingastも指摘するように、中世の都市でもっとも商業が栄えたのは商人ギルドの発達した都市であり、それは情報の非対称性を解決するシグナリングの機能を果たすと同時に、不正な取引を行なった者を「村八分」にすることによって商取引の安全性を守る意味があった。

しかしシグナリング機能のためには資格認定で十分であり、無免許営業を禁止する必要はない。医師免許も人命にかかわる「コア医療」に限定し、町医者は資格認定にしたほうがいい。それによる医療ミスのリスクより、免許による独占で医療費が上がり、医師不足で生命が失われる社会的コストのほうがはるかに大きい。パイロットの場合は、企業が採用する段階でスクリーニングすれば足りるので、免許は必要ない。
「職業免許の「仕分け」を」

と、「免許」の代わりに「資格」を導入すればいいと主張する。
しかし、免許と資格の差異は、単に独占としての意味があるだけではない。免許の特徴として

【免許】
 一般的に禁止または制限されている行為を、行政官庁が特定の場合に特定の人だけに許す法律効果を「免許」といいます。したがって、免許のもとに行われる行為は、行政が責任をもって監督しなければなりません。

 【資格】
 これに対して資格とは、個人や法人があることをする場合の能力を証明するもので、その人の立場や地位のことです。資格で行う行為は免許とは違い個人レベルの問題で、そこに公共性はありません。資格で行う行為の責任は、当事者同士の問題で、行政が関与することはありません。

 つまり、免許とは行政が責任をとるもので、公共性がり、資格では、行政がその責任を取ることはない。従って、免許と資格の区分は、公共性に関わるものが免許で、公共性に関わらないものが資格となります。
 試験に合格しても、18歳未満では毒物劇物取扱者になれない理由は、ここにあります。
「資格取得のabc講座」

という点が挙げられる。
第一に「もともと法的に禁止されていたことを特別に認めた」という点がある。例えば医療行為はその行為のみ捉えれば「傷害」そのものであり、医療であることを理由に特別に認められている。ダメ医者は本人が選んだのならそれでいい、とは政府としては言っていられないのであり、たとえ本人の自己決定であっても 社会全体の損失になるなら強制的にでも押しとどめることは妥当性をかちえる。
第二に、特別に認めたがゆえに、そこで生じた責任が最終的には行政に帰着する、すなわち行政による処分を可能にしているし、行政から何らかの命令をすることが出来る、という点が挙げられる。これもまた単に資格を与えるのと大きな違いで、こうした制度があるからこそ、例えば国選弁護人の制度は機能する。
そういうわけで、単純に資格にすればよい、というわけではないのである。

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コメント

殆どの事業者が行政の監督を受けていますよ。免許制を採っている事業に限りません。例外は弁護士会くらいでしょうか。

池田さんがいっているのは、町医者などは参入規制となる免許制ではなくて能力担保のみの資格制でいいんじゃないかということだと思います。資格制でもある程度の参入障壁にはなりますが、独占業務としない分、市場原理がはたらき易く診療報酬もこなれて利用者のメリットになります。

投稿: Josei | 2010年2月22日 (月) 15時33分

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