理系思考と文系思考?
雑誌プレジデントに「売れない時代に必要なのは理系脳か文系脳か」という記事があった。
まずこの記事では理系的思考と文系的思考を
理科系の発想は、「現実の拠ってくるところの原因」を追究し明らかにしようとする発想だ。自然科学の世界にぴったり合うが、それが社会現実の把握や統制にも用いられる。ここではそれを「科学的理解の立場」と呼ぼう。
もう一つは、文科系の発想だ。それは、科学的理解を解きほぐして、当事者の理解に差し戻すことで見えてくるところの、「ほかにも、何か可能性がありえたかもしれない」という想像力が働くような現実理解の立場である。そうした「不可能でなく必然でない様相」は、哲学の世界では「偶有性」と呼ばれる。科学的理解に対比させて「物語的理解」と呼ぼう。
と説明している。
そのうえで、カルビーのポテトチップスの鮮度管理に関する経営戦略を例にとって
鮮度管理概念の誕生においては、(1)意識して苦難の道を歩む先取りの選択、(2)先取りした流通革新の実施、(3)鮮度に対 する高い感度、そして(4)当初の切実な問題を潜在化させる販促の成功があったのである。こうしたエピソードは、科学的理解が示すストーリー、「原因が あって結果がある」というような、いわば出合い頭の話ではなく、いろいろな解釈が生まれそうな複雑なプロセスのありようを暗示している。こうした違いを反映して、たとえば、「ビジネスにおけるリーダーシップとは何か」という重要な質問に対する二つの発想の答えはたぶん違うだろう。
さて、「鮮度管理がなかったことが、販売不振を引き起こし、それを解決するために鮮度管理体制を構築した」というのが、鮮度管理概念の誕生についての科学 的理解。だが、その理解では、当時関わった方々のさまざまな思いや目論見、あるいは先行する諸策や後に続く諸策への考慮には及ばない。当たり前といえば当 たり前だが、科学的理解においてはいろいろありえたはずの可能性を汲みあげる志向はない。時には、単純化のために大きいデフォルメの機制も働く。そこに、 現実の中に潜在する「ほかでもありえた」可能性を組み込み、現実を深い深度で理解しようというもう一つの立場の意義がある。
理科系発想と文科系発想、科学的理解と物語的理解。どちらが優れているというものではない。ここでは、ビジネスの世界で支配的な理科系発想が現実理解の 唯一の方法ではないこと、隅に追いやられてしまいがちな文科系発想は、科学的理解の及ばない射程を秘めていること、このことをここでは確認しておきたい。 物語的理解が経営実践に持つ意義については、機会をあらためたい。
とまとめている。
さて、この記事については、そもそも理系思考・文系思考というカテゴライズの問題と、そこから引き出す結論の問題の二点についてやや疑問がある。
まず理系と文系について。この記事では理系的思考を「科学的理解」、文系的思考を「物語的理解」としている。しかし、文系の学問が社会「科学」や人文「科学」と呼ばれることからもわかるように、まず文系だからといって科学的でないわけでは全くない。「原因と結果」という理解は、「仮説―検証」という方法論を帰結させる。そして、経済学や心理学などはもちろん「仮説と検証」という理系的理解を行っているし、政治学や社会学も然りである。一見もっとも物語的理解に近そうな歴史学でさえ、史実の決定のためには膨大な史料を参照しながら、本当はどうだったのか、という仮説を検証していく作業である。
だから、筆者の言いたい「科学的理解」と「物語的理解」というのは、理系/文系という区分に対応するのではなく、むしろ「論理的・学問的な理解」と「日常的な理解」の区分だと見る方が妥当であろう。
これはこの記事に限らず、世間一般で言われる「理系的思考」等の多くに当てはまるように思われる。概して「論理的であること」「因果の構造をきちんとなしていること」などをもって「理系的思考」と呼ぶことは多いが、文系の学者も当然ながらそういった思考法は用いているのであって、結局は理系文系云々ではなく論理的であるか否かという一点に帰着する問題であろう。
次に物語的理解の意義について。筆者はカルビーの例を出して、物語的理解によって見えてくる側面を強調する。しかし、そもそも「ビジネスの世界で支配的な理科系発想」というのは、この例で挙がっているようなものとは意味が違う。「科学的理解」の目的は、再現性のある法則を理解し、次の現象をきちんと予測する、あるいは対処法をきちんと提示する、という点にある。これに対し、「物語的理解」というのは過去に起きた事実をどう解釈するかという問題である。ビジネスでは「次に何をするか」という未来のことが話し合われるので、「過去の理解」の方法である物語的理解は軽視されてしまうのも仕方がないものであろう。 逆に、過去のカルビーの事例の理解のために科学的理解を持ち出してくるのも違和感がある。
さらに、カルビーの事例では「「鮮度管理がなかったことが、販売不振を引き起こし、それを解決するために鮮度管理体制を構築した」というのが、鮮度管理概念の誕生についての科学的理解」とされているが、これは筆者の定義したところの「科学的理解」の正しい理解になっていない。筆者がカルビーの事例で出しているのは「なぜカルビーは鮮度管理を行うようになったか」であるが、これに対する「科学的理解」のためには「いかなる心理的・環境的原因によって、カルビーの人は鮮度管理をしようという結果を生むようになったか」という問題設定がなされる。そして、この問題への答えは、筆者が物語的理解の例として挙げる
「意識して苦難の道を歩む先取りの選択」などは、まさにこうした心理的要因によって鮮度管理という結果を生んだという「科学的理解」になっている。
おそらく筆者は「科学的理解」と「人々が合理的だとする仮定」を混同しているのではなかろうか。カルビーの人々が完璧に合理的であるという仮定をおけば、鮮度管理をするようになった要因は「鮮度管理がないことによる販売不振を受けての改善」ということになるが、これはそもそも仮定が間違っているので、過去実際にカルビーで起きた事実を正しく説明していない。しかしここで示されている誤りは、最初の「人々は合理的だ」という仮定であって、科学的理解の方ではない。
前に「説得における合理性」についての説明で、相手が不合理な人間である場合、論理ではなく感情に訴える方法が合理的である場合もある、という旨を書いたが、これと状況は似ている。人々が感情に基いて非論理的(非科学的)に行動している場合、資料に基いて「人々は非科学的に行動した」と記述することは「科学的」な営みなのである。
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