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日中共同歴史研究の根本の問題

個別個別の歴史事実を論ずるのが瑣末だと先日の記事で書いたので、根本的な問題の方について書いておこう。

まず、そもそもなぜに共同で歴史を研究しなければならないか、という点をきちんと考えたい。一口に「歴史」と言ったが、「歴史」には、事実として何が起き たかという「史実」の問題と、どの史実をどのように一本の話として紡ぎあげるかという「叙述」の問題がある。後者はいわゆる歴史教科書問題で「~を美化し ている」「~を悪く書きすぎだ」「~を教科書に載せるのはおかしい」等々の形で出てくる類の問題である。


叙述の方について言えば、これは日中で共通のものになる必要性はそこまで高くない。歴史教科書に話を絞ると、まず実際に日中で共通の歴史教科書を用いるべきだという主張については、そもそも日本では検定を通れば自由に教科書を発行することが出来る以上、そのようなことをするのは現実性がない話である。
次に「どういう方向性の教科書が望ましい歴史教科書か」という方向性だけは共通の認識にしておこうという主張があるだろう。しかし、そもそも記述する対象が日本では「日本史」であり中国では「中国史」である以上、主体が最初から異なっているので必然的に視点が食い違うのは当然であろう。歴史教科書は自国を主体としてそうした視点から史実を選択し再構成されているので、誤解を恐れずに言えば歴史は主観的な編纂になる。もちろん客観的な観点からの批判として、叙述する歴史の内部に整合性がとれない(同様の行動を、他国の場合は批判的に叙述するのに自国の場合はそうはしない、など)場合には批判にさらされるだろう。だが、逆にいえば相手国がそうした問題を抱えていない場合には、歴史叙述の方向性について共通である必要性はそこまで高くない。
歴史叙述の共通化を目指す人々は、日中間の摩擦を取り除こうという意図があるように思う。だが、そもそも「歴史について共通の認識を抱かなければ、互いに友好的な関係は築けない」という仮定自体、そこまで妥当性の高いものだとは思えない。例えばアメリカと日本では歴史認識は大きく食い違うが、日米は友好的関係を保っているし、日本人とアメリカ人も友好的にやっていけている。結局のところ、根本の解決策は「歴史認識を共通にする」のではなく「歴史認識の異なる人同士で仲良くする術を身につける」方であろう。もちろんアメリカと中国の大きな違いとして、中国は歴史問題を政治の俎板にたびたび上げるという点は確かに存在する。しかし、この問題は純粋に政治的な課題であり歴史学がどうこうできる問題でもないので、この点にこだわりすぎる必要はそこまでないだろう。

さて、次に史実の問題である。史実の問題はとりあえず客観的な学問の問題であるので、相互に共通の見解を抱いてないのはよくない状況にあると言える。しかし、そこから日中の歴史の共同研究が直ちに導かれるのだろうか。
おそらく他の学問領域(自然科学など)で多国間の共同研究をするのは、間違いなくただ単に優秀な人材をたくさん集めて研究の進展を早めるためである。あるいはまれであろうが、それぞれの国ごとに視点の偏りがあるので、それを他の国とぶつけることにより視点を深め、より豊かな研究にするというものがある。
だが、今回の歴史の共同研究はこのケースには全く当てはまらない。前者に当てはまらないのは言うまでもないし、後者についてもそもそも国内の歴史学者で中国の意見を代弁するかのごとき学者は多数いる以上、とりあえず日本について言えば国内の研究で事足りる。

結局のところ、何が問題なのかといえば、それは中国国内で自由な学問と自由な言論が確保されていないという一点に尽きている。自由な学問が行えないのだから、当然ながら(学問的に導かれた)史実で食い違いが生じる。日中の史実についてのずれを解消したければ、中国における学問と言論の自由を確保するようにするのが最善の解決策である。
では、この目的からみて今回の共同研究は有益であろうか。私は無益だとまで思わないが、ほとんど有益でなかったと思う。今回の研究結果は中国側にとって都合の悪い部分(天安門事件とか)はそもそも取り扱わないという形で進められている(http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date4&k=2010013100092)。このような形では、学問的自由は確保する方向には動かない。むしろ、中国メディアの報じ方を見る限り、今回の歴史研究を日本から譲歩を引き出すための一つの政治的駆け引きの場と見ているようである(http://www.asahi.com/international/update/0201/TKY201002010303.html)。このような学問領域の政治化こそ、学問の自由の侵害につながってくる以上、学問の政治による浸食をすすめるような活動は、史実の共有にマイナスにもなりかねない。

なので、繰り返しになるが、共通の歴史にしたいのならば、先んず中国の学問状況を変えるような働きかけをするのが一番であろう。確かに困難は多いが、そうした困難な道から目をそむけていても、問題は解決しないであろう。

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