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「説得力」という発想の罠

よく議論等において「説得力がない」などといい、説得力の有無の要因として「誰が話しているか」を挙げることがある。確かにこれは現象の観察としては正しいが、しかしこれが「いいもの」であるかのごとく錯覚すると大きな問題がある。

まず、説得力が問題となる具体例として、以下のような例を挙げることが出来る。2人の人が同じ内容を述べたケースとして

1 Aさんは普通の社会人。車に乗ってみたところ、勘で「この車には問題がある」といった
2 Bさんは車の整備士。きちんと検査を行って「この車には問題がある」といった

のどちらが説得力があるかと問われたら、圧倒的に2のケースの方が説得力がある。なぜ説得力が増すかといえば、2の方が発言が妥当である確率が高いと考えられるからである。「この車には問題がある」という発言を行った理由として、2の場合はBさんの能力や検査の存在をあげることが出来るのに対し、Aさんは勘以外の要因をあげることが出来ない。

これは、例えば教室の中にいる生徒の人数を聞かれて「35人です」と報告したときの理由として

1 部屋に入って人数を数えたから
2 1~50までの数字の書かれた玉の入った壺から一つ玉を取り出したら35と書かれていたから

の2つをあげられたら、1の方がより信頼できることと同じである。1の場合には(数え間違いとかがあるにせよ)部屋の人数と報告とに相関関係があるのに対し、後者はそうではない。

さて、しかしここまでの話では重要な点が隠されている。それは「事実がどうであるかを知る手段は一切なく、参考になるデータはその発言以外には存在しない」という仮定である。どういう理由でいおうと車に問題があるのならば問題があるのは真だし、問題がなければ偽である。なので、もし教室の人数を知りたいのなら「自分で教室を覗いて人数を数える」のが一番なのであり、それが出来ないという仮定があって初めて「どっちを信用するか」という説得力の問題になるのである。

なので、人の話についてことさらに説得力を問題にしたがる人というのは、その人の話を鵜呑みにするのか、あるいはまったく聞き入れないかの二択にしてしまっており、「その話の妥当性を自分の頭で考えて、正しいと判断したら受け入れ、そうでないなら受け入れない」という最も妥当性の高い方法は予め放棄されているのである。要するに説得力での判断というのは、自分の頭を使わないですまそうという怠惰な姿勢の表れなのである。
「経験の裏打ちがない発言は説得力がない」というのも同じで、要するに「経験による実験―反証のプロセスを経ていない発言は誤っている可能性が高い」ということしか意味していないのだが、これも相手の発言を鵜呑みにするか聞き入れないかのどちらかだと思うから問題なのであり、「自分の頭と経験で考える」というのが正しい答えである。内容の正しさは発言の出所とは独立に規定されうるのであり、もし内容が正しいのならサルが適当にタイプライターを押した文字列であってもそれは正しいのである。ただしその内容の正しさを発言の出所に求めることはできない、というだけであり、その真偽を自分で判断せざるを得ない、というだけである。


なお、最後に今までの話とは少しずれるが「自分が出来ていないことを人に求めるのは説得力がない」といわれるが、これは今までの話とは少し違う。この場合に説得力がないのは、そもそも自分が実行できていない段階でその発言内容が反転可能性(その内容を類似のすべてのケースに妥当させること)に失敗しており、その段階で発言内容が論理的に破綻しているからである。

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