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靖国合祀の話と人権の話

「靖国合祀イヤです訴訟」と呼ばれるものがあるのだが、そこでは靖国に合祀された人の遺族が合祀を取りやめるように靖国を訴えているらしい。
この問題のポイントは、靖国はただ手続的に合祀を行っているだけで、物理的には(例えば遺骨を返さないとか)何も被害を与えていないという点であろう。なので、遺族は遺族なりに祈ることは現状でももちろん認められており、「各自がバラバラに死者の意味付けを行い、それに基いて祈る」ということは可能な状況にある。それを踏み越えて「遺族のみが死者の意味付けの解釈独占権を有し、他者の祈りについてはそのやり方を強制することが出来るか」というのがこの問題の核心になる。(訴状も法律論としてはそういう骨格になっている)

恐らく判決としては、呪いさえ法律上は認められているのだからまして祈りは勝手にやらせておけという話になるんじゃないのかな、というのが私の感覚なのだ が、その点を置いておいて見ても、この訴訟はリベラル側が恐らくバックアップしているんだろうけど、ちょっとそれって危なっかしくないかな、と思った。
というのも、上記したように、原告側は「他者の(独立な)祈りの行為が別の人の精神に大きな影響を及ぼす」ということを前提としている。けどそれだと考えてみると、「通常の私的行為は他者に影響を与えない」とする、通常個人の自由を守るために持ち出される前提が見事に掘り崩されてしまう。つまり、私が家の中で何をしていようが、他の人には何も影響を及ぼさない、だから私は好き勝手してて良い、というのが個人の自由を守るためのロジックの前提にあるはずで、ところがこの訴訟だと家の中で一人で勝手に祈ってたら、違う人が乗り込んできて「あ、それはダメですよ」と言いに来たようなものだ。普通に考えてそのレベルで他者の行動を規制できるのってまずくないか。というか、各人の行動の他者への影響が大きいという仮定に立つならば、必然的に共同体の秩序維持というのは個人の自由とより衝突するようになる(自由が認められるのは、全体に自分の行為が及ぼす影響が無視できることが前提)から、かえって各人の自由が抑え込まれるための前提を自ら引き込んでしまっているような気がするというか。

ちなみに、合祀に反対の人は「集団としてではなく個人として祭り上げられていること」がよくないと思うらしい。つまり不特定多数を指す「犠牲者」ではなく「○○さん」である点がよくないと。そこが例えば8月9日に長崎で「全犠牲者に」とキリスト教が祈りをささげたときに、「俺の原爆で死んだ母さんはキリスト教なんか求めてなかったんだから勝手に祈りなんかささげるな」と言い募るのがいかにも不自然であるのとの相違だということだが、まあ確かにそういう面もあるだろうがしかし靖国って確か250万人ぐらいの人が祭られてるんだよね、一人一人顔を思い浮かべて祈るのってもはや不可能でしょ、と思ってしまう。大体西南戦争から第二次大戦までごっちゃに集められた戦死者なわけで、そうしたらもはや靖国の合祀も名簿以上の価値はないでしょうというか、名簿ほしいなら長崎の原爆被害者だって多分調査されてるだろうからそういう名簿はあるはずというか、まあその程度の差でしかないように感じるわけで。

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