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会議におけるコミットメント

会議において「理屈っぽい」という批判がしばしば行われる。これは「発言者の位置が中立的すぎて、どこにコミットしているのかわからない」という点につい ての批判らしい。しかし、この批判は状況によってそれが妥当するか否かが変わると思う。

まず、発言の内容が、何かを擁護・推進するものなのか、それとも批判するものなのかによって事情が大きく異なる。何かを擁護・推進する場合には、必然的にその主張内容にコミットすることとなる。あることを推進することに賛同しているならば、自らがそれを推進していくことを同時に期待されるのは、状況にもよるが一定程度生じてしかるべきものだろう。
だが他方、何かを批判している場合にはこれとは事情が根本的に異なる。なぜなら、ある意見Aを「正しい」と主張するには、その意見Aの結論部分にも積極的に同意している必要があるが、ある意見Aを「正しくない」と主張する場合には、その意見Aの結論部分に積極的に反対している必要も、意見Aと異なる別の意見Bに積極的に賛成している必要もないからである。ここに「正当化」と「批判」の非対称性がある。

ある意見Aが「正しくない」と指摘される場合には、それと背反する意見Bが正しいからという外在的な批判と、意見Aの論理構成に誤りが含まれるからという内在的な批判とが存在しうる。そして、前者の場合には他の意見Bに対するコミットが行われることとなるが、後者の場合には完全にニュートラルな立場から批判が行われ、そこにはコミットは存在しないし必要ない。なぜなら、論理的誤りは普遍的に(=いかなる人であっても)その誤りが確証できるからである。
例えば、学生団体である人が「現状認識はXであり、それゆえ~なのでYというアクションをとるべきである」と主張したとする。この場合、「他のZというアクションをとろうと思うだから反対」という外在的批判以外に「そのロジックではXからYは論理的に帰結しない」という内在的批判が存在する。この場合、批判者は何かを積極的に主張しているのではなく、ただその論理的誤謬を指摘したのみであり、従ってどこかにコミットを行わないとしてもそれは正当である。それは、仮に批判者が結論Y自体は賛成しているが、それは別のロジックによるものであり、ある人の提出したロジックは破綻していると主張することがありうることからも明らかであろう。「結論の正当性(コミット)」と「推論(ロジック)の正当性」は切り離して議論することが出来る。

さて、このように指摘すると「しかし、会議に参加している以上は何らかの意見にコミットする必要性自体はある(それが会議参加者の義務である)が、内在的批判者はそれを行っていない」という反論があり得よう。しかし、これは会議における意見の種類を狭く解釈していると思う。会議におけるスタンスの持ち方として、上記の反論は、仮に意見AとBが二項対立をなしているとして

1 意見Aへの積極的賛成
2 意見Aへの積極的反対(=意見Bへの積極的賛成)
3 無関心

のどれかしかないという前提に立っているように思われる。そして、コミットをしないことは上記1・2ではないことを示しており、ひいては3であることを示しているが「無関心」という姿勢は会議では取るべからざる姿勢である、これが先の反論のロジックだと考えられる。
しかし、上記1~3以外にも取りうるスタンスは存在する。例えば

4 意見AでもBでもどちらでも帰結は本質的に変わらない(大きな差異は生じない)と考えるので、どちらにもコミットしない
5 他の議論参加者ないし決定権者の判断力・情報の方が上だと考え、信用し、そうした人に決定権を委ねる(これは正式に手続きを踏むというより、手を引くという消極的形で実現させることも多い)

等がある。4は、議論そのものは瑣末だと思っているが「争う人がいる以上、とりあえず議論はさせておいてよい」、あるいは「どちらでもいいが決めるということが重要」という場合に起こることが多い。5は、自分より多くの知識を持つ人が同席している場合に「自分はよく知らないから/自分よりいい判断が出来るだろうから」と決定を委ねる場合である。
どちらも不誠実な姿勢ではないが、しかし4・5にしても「明確に正しくない判断」が下されることに反発する権利は持っている。それが先にあげた内在的欠陥を抱えている場合であり、それに対して批判を加えることは、コミットがなくても妥当だといえる。

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