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科学理論と現在の「特権性」

科学哲学において、実在論と反実在論という二つの立場がある。それぞれ、前者にはパトナムの奇跡論法、後者にはラウダンの悲観的帰納法という有力な議論が ある。二者の立場の詳細は伊勢田氏の解説に譲るとして、ここでは既存の議論とは異なる視点から実在論を論じてみたい。

まず、科学理論についての見解を「理論そのものの正当性に関する見解」と「理論を発見し主張する科学者(の共同体)の営みに関する見解」とに峻別する必要がある。この二者を混同した議論は科学哲学には多い。例えば「科学者の認識にしばしばバイアスがかかること」と「科学そのものの正当性」とを等しく論じてしまう等々。
この「理論そのものの正当性」と「科学者の営み」についての見解のうち、前者を内的分析、後者を外的分析と呼ぼう。内的分析は科学のルールそのものにのっとって分析するのに対し、外的分析は意図やルールは扱わずに行為のアウトプット、帰結のみで分析を行う。外的分析は各行為やものの役割にスポットするので機能主義的ともいえる。

さて、この峻別をきちんと行ったうえで実在論と反実在論の議論を見てみよう。まず、強い悲観的帰納法、すなわち「これまで上手く行っていた理論Aも理論Bも後に誤りが分かったのだから、きっとこの理論Pも誤りだとわかるだろう」という推測を見よう。これについては「可謬論の罠」で既に取り上げたことがあるが、ここでは違う観点から論じたい。
「過去の理論は間違っていたから、この理論も間違うだろう」という分析は、先程の分類では外的分析になる。なぜなら、この分析では「理論が棄却された」という結果のみに着目しており、理論の中身については一切言及できないからである。理論の中身について、すなわち内的分析においては、「間違っていた過去の理論」と「この今の理論」とには、決定的相違がある。それは「過去の理論はその誤りを示す証拠、上手くいかない証拠が膨大に存在するが、今の理論はそうではない」という点である。内的視点に立つ限り、過去の理論は「誤りを示すデータがあるがゆえに」捨てられており、今の理論はそうしたものは存在しないので正しい理論となる。
「これまでの理論は間違っていたから、きっとこの理論も間違うだろう」という外的分析は恐らく妥当である。だが、これを認めたからといって「ゆえにこの理論は正しくない/信用すべきでない」等々の理論そのものの正しさについて言及する内的分析は行えない。この理論の正しさは、存在するデータと科学の方法論(という内的なもの)によって保障されており、外的な洞察では正しさについて言及できないのである。
このようにいうと、「しかしそれは「今現在」存在するデータについてしか言えないではないか。将来的にはデータにこの理論の反証も付けたされるのではないか」と言うかもしれない。しかしこれは外的分析と内的分析の混同である。外的分析は時系列の外に立って淡々と事実を記述していくので、データの累積等々を記述できる。だが、繰り返しになるがそれは理論が正しいかどうかの判定には影響を与えない。理論の正しさの判定は過去のデータと「データを最適に説明するための理論」という基準にのみ基づいて行われる。その判定というのはあくまでも「現在持っている全データ」に基かざるを得ないので、必然的に、内的分析ではすべての時間軸の中で現在の実が圧倒的特権性を保有することになるのである。

なお、「理論の正しさ」と「過去、ある理論が正しいといわれること」とは全く別だということは注意してほしい。これを注意しないと、科学史が、過去を現在の理論で裁定するホイッグ史観に陥ってしまうことになる。「理論の正しさ」について現在を特権的に扱うことは、カロリック説のように今では誤りとされる説が信じられていた過去を「愚か」だと嘲笑うこととは全く違う。科学史は「科学者共同体で何が行われたか」を純粋に客観的に記述する外的分析であり、現在に特権性を与えた内的分析とは峻別されている。「カロリック説を信じていた人たちが相当程度合理的であること」は科学史が明らかにできることだが、他方「カロリック説が誤っていること」もまた確実である。「何が正しいか」については、我々が現在にいる以上、現在の知識に基いて判定するしかないのである。

機能主義というのは外的分析なので、必然的に機能主義で内的分析を行うことはできない。このことを見逃してしまうと、機能主義的論法で内的正当化を行えたと思ってしまうこととなる。例えば、以前書いた「フラーセン『科学的世界像』」の後半の奇跡論法批判もこれが背景にある。ある理論が正しい理由として「これまでのテストを生き残ってきた(淘汰のふるいにかかった)から」という進化論的回答を挙げるのは、進化論的回答という外的分析でもって、「理論の正しさ」という内的分析に答えようとする誤謬に陥っている。
こう考えると反実在論は、実在/反実在という内的分析について、機能主義的な外的分析でもって答えるという誤謬を犯していたということが出来る。反実在論のメリットは、理論の誤りが見つかる場合への対応能力のみであり、あとは実在論の主張を弱めたにすぎない。しかし、科学理論というのは内的正当性に裏打ちされているものであるので、反実在論では理論の機能性は説明できても理論の中身に言及できないことになる。

外的分析は字義通り外から行われたものであるがゆえに、機能を成功裏に説明することは出来ても、それを持ちこんでプレイヤーになることはできない。科学理論についていえばプレイヤーとは科学者のことである。科学者が活動する際に「電子は実在する」と「電子という道具を置くことでうまい結果が得られる」と考えるのとでは、実際の科学者は前者に従って動くものである。「科学者の行動・科学理論の実績の説明」であれば後者のような機能主義的説明でも矛盾なく説明できるが、しかし「科学者の意図」としては前者でない限りうまく動かない。科学者はそれが正しいと思うから動くのであり、それが正しいとしたときの機能がどうなるとか考えて動くのではない。
ゆえに、例えば電子についてならば、すべてのデータは電子が存在することを支持するものであるので、「電子は実在する」ということが出来る。もちろん外的予想として、電子についていつか反証されるのではと考えることは出来る。しかし、今現在を生きる身であるならば、自然科学の正しさを信じる者は「電子は実在する」と主張せざるを得ないのである。

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