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参院選と「一票の格差」(2・完)

さて、そもそもの問題に移ろう。「一票の格差」というと最高裁も違憲判決を出したこともあるぐらいなので、問題だというのが一般的認識である。だが、そもそも「一票の格差」はなぜ問題なのだろうか。

まず、政党の観点から。政党の得票数と議席数の逆転が起こりうるという、すでに見たような批判がある。だがこの批判は、政党の選挙対策によって消滅させることが可能で、さらに前の記事で述べたように、政党という観点からは一票の格差よりもはるかに大きな「立候補者の不在」という問題を解決しなければならないにもかかわらずそれをしていないという自己矛盾があるので、この観点は説得力ある形では展開できない。

では、政党という縛りをかけずに、マクロで当選した候補者同士の背景にある票の数の違いを考えたらどうだろうか。つまり、有権者200万人の選挙区から120万票集めて当選したAと、100万人の選挙区から60万票集めて当選したBとの(政党を抜きにした)純粋な比較である。一見Aの方が、より多くの人を背景に据えているので重みがあるように見える。しかし、本当にそうだろうか。ある一定地域内に、ある候補者の主張や姿勢に共鳴してくれる人の割合は恐らく一定だろう。だとすると、もしBが2倍の人数である200万人の選挙区を対象に同様の主張を行い選挙活動をしたならば、2倍の票数である120万票を集められたと考えるのが妥当である。ならば、Bの方がAより信頼に足らないと考えることには何ら根拠はない。

今までは割とマクロ的観点から見てきたが、そもそもこれは個人の参政権に関する法の下の平等の問題だという声もあろう。裁判所もその観点から議論を組み立てているように思う。
しかし、一票の格差があったとしても、各個人の視点から見たときに「私が一票を投じること」そのものは全く阻害されていない。私は一票しか投票できないのに、同じ選挙区内で別のお金持ちの人は三票投票できたわけでもない。その選挙区内で誰が選出されるかについては、一票の平等は完璧に守られている。
そして、選挙区同士の比較となるが、これはあまり意味がない。背景の票の数を候補者の信頼度として比較することが無意味であるのはすでに見たが、そもそも一票の格差をなくしたところで背景の票数の問題は解消されない。仮にすべての選挙区を有権者100万人としても、状況次第では49万票集めて落選する候補者もいれば、30万票しか集めてないのに当選する候補者もいるだろう。なのでこれは選挙区という制度そのものの問題であって、もし一票の格差を問題視する人が本当に背景票の問題なのならば、解決策は「選挙区の区割りの是正」のはずがなく「選挙区の廃止」のはずなのである。にもかかわらずそう主張しないのは、「一票の格差」批判者の姿勢が一貫していないことを意味している。
結局比較しうるのは「選出議員数/有権者数」という数字のみだが、これはマクロな制度的数字であって、各個人の平等とは本質的に関係のないものである。ゆえに「法の下の平等」を援用しても、マクロな数字の不釣り合いは批判できない。平等権は「投票所で一票を投じるという行為」にしかフォーカスできないのである。

なお、当然だが自分の一票で選挙結果が変わる確率(自分がキャスティングボードを握る確率)はゼロである。これは「1/有権者」ではない。厳密に確率を計算するならスターリングの公式を用いて「1/2^有権者」となるが、これは「有権者が一人増えると、自分がキャスティングボードを握る確率は半分になる」ということである。もし票の価値を「キャスティングボードを握る確率」と捉えるなら、有権者が一人増えるだけで一票の格差は2倍である。こんなとんでもない話はない。

「一票の格差」批判者は、いくつかの誤謬に陥っているように思われる。その一つが「利益代表の幻想」である。選挙は地域の利益代表を送り込むものである、という認識である。しかしこれは、制度上は「全体の奉仕者」であるとしてきっぱり否定されているし、実際問題でもそういう議員はそれほど多いわけでもない。特に一票の格差で不利が指摘される都市部で、利益代表という認識はまったくなじまない。だが、利益代表的に議員を捉えると「あいつら人数少ないのにうちらと同じ一人の代表を送り込みやがってずるい」というような心情は生まれうるだろう。もちろん前提が誤っているのでこの心情に配慮する必要ないのだが。
そもそも「一票の格差がなくなれば、均等に個人の意見を反映させられる」というのさえ幻想である。実際の選挙状況をみる限り、二人区では「自民1、民主1」というのがほぼ固定化している。ということは、二人区の有権者は実質的に民意を反映させる手段がなくなっている(少なくとも一人区に比べれば圧倒的に困難)という状況に陥っている。これは一票の格差が解消しても何も解決されない問題である。また、固定的な支持組織がある選挙区だと、そうでない選挙区に比べてそこの有権者は民意を反映させるのが困難な状況に置かれる。例えば小沢の選挙区で自民党候補が通りうるか、と考えればこれもわかるだろう。

そもそも参政権を「権利」だと捉えているところに根本的な問題がある。これはすでに「参政権は人権か」で記したが、参政権は民主機構を維持するための一つの役割に過ぎない。投票の際に「候補者を選ぶ」という作業が入るので権利であるかのような錯覚を起こしがちだが、そもそも投票は権利の意味である「一定の枠内ならば各自の好きに行動してよい」とは全く次元を異にする行動である。投票は、「自分の利益になるのは誰か」ではなく「誰が最も政治にとって妥当な行動をするか」という判断基準で決めねばならず、そのために国民に政治への関心と一定の思惟を強いているのである。(参考:「政治において国民に求められる判断とは何か」)
こういう点を踏まえると、民主制は「代表を送り込むもの」ではなく、「悪い統治者を引きずりおろしてよい統治者に変えるもの」という批判的民主主義の側面が強いことが分かる。そして批判的民主主義として捉える限り、ことさらに偏った選挙区が生まれないならば、一票の格差があっても、選挙は十分に民主主義として機能しているといえる。

もちろん一票の格差がなくなって悪いことはない。だが、その優先順位は非常に低いというのがここでの結論である。一票の格差をなくすための政策、例えば毎回有権者名簿に基づいて選挙区の代表人数を変える制度、を議論する際にも、恐らく論点となるのは一票の格差ではなく、頻繁に選出議員人数の枠が変わることによる議院の不安定性のメリット(支持母体や地盤が出来にくい)・デメリット(特定地域で支持を広げることが難しい)の比較が主となるであろう。こうした点より、一票の格差は「実質的には問題でないし対策されることもない」と考える。

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