犯罪は社会の責任なのか?
死刑存廃の論議に絡んで、しばしば「犯罪は社会の責任である」という観点からの死刑廃止論が展開されることがある。例えばアムネスティ日本支部は
犯罪の背景には、多くの場合、貧困や社会的差別があり、死刑によって犯罪者を排除しても問題は解決できない。
と述べている。けどこうした主張は一見もっともらしいが、それは死刑への議論へは実は力を持っていない。
まず、犯罪をなくすために社会をよりよくすべきだという主張自体はその通りだと思うし、実際すべきだと思う。だが、社会をよりよくした方がいいことと、犯罪者をどう処罰するかは独立の問題である。仮に社会をよりよくした方がいいからといって、では犯罪者はどうでもよくなるのか、無罪放免にしてしまっていいのか、といったら違うに決まっている。
では、犯罪者自身が社会によってそのようになってしまった(犯罪をしてしまった)という観点はどうだろうか。注意すべきは、この主張では犯罪者がまったく自立した個人としては扱われていないという点である。犯罪者の行動を社会の責任とするのは、子供の行動に親の管理責任が伴うのと似ている。しかし、それは子供の行動を親が管理し制限する権限を与えられているからこそ成り立つのであり、ゆえに社会の責任を強調する論は、社会による個人の管理を肯定せざるをえなくなる。
さらに、である。社会の責任にしたところで、犯罪者の死刑を免れるわけではない。仮にある人が社会の欠陥によって生み出されてしまった「不良品」であり、犯罪を犯すような人間に育ってしまっているとしよう。しかしそうした状況において管理責任者たる社会のとるべき行動は「不良品」を「回収」して「処分」することである。飼い犬が人を噛み殺した場合、責任をとるのは飼い主だが、代わりに犬は保健所により「処分」されるように、個人を「責任を負えないもの」としてしまうと、責任は取らなくてもよい代わりに、危険分子(犯罪者)の「処理」は回避できないのである。ゆえに、犯罪者に責任がなく社会に責任があるとしても、むしろ逆に犯罪者は死刑にされても文句が言えないのである。
結局ここから垣間見れるのは、社会において自由な行動は取りたいが問題を起こしたときに責任は取りたくないという身勝手な要望である。しかしそれは社会の成員である以上不可能な要望なのである。
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コメント
いつも楽しく読ませてもらっています^^
アムネスティーが言いたいのは、犯罪者が犯罪を犯したのは(ちゃんとした大人になる環境を提供できなかった)社会の責任でもあるから、犯罪者の避難可能性が減少し、したがって死刑にまでしてしまうのは酷だ、ということではないでしょうか。
子供に対する親の責任を、親の管理権限からくるものとし、社会の責任を強調することは、社会による個人の管理を正当化するという論理を構成していますが、
子供に対する親の責任は、管理権限ではなく、むしろ親の子供に対する、教育を含めちゃんとした環境を提供する責任から生じるのであり、
社会の責任を強調することは、個人がしっかりと成長できるように社会システムを整備する社会の義務につながる(格差是正、しっかりとした教育システム、親へのサポートなど)
とも考えられ、社会の責任を強調すること=管理社会と結び付けることは、安易にはできないのかな、と思いました。
不良品に関しては、確かに死刑は、更生の見込みのないものを社会から排除することを理由としていますが、
それに関しては、
1)本当に更生の見込みがないのか
2)更生の見込みがないとしても、死刑以外の隔離手段(保釈なしの終身刑)がある
という論点があるのかな、と思いました。
投稿: Yoyo | 2010年8月25日 (水) 02時47分