原爆と核廃絶
原爆の日になると、必ず核兵器批判が出てくる。例えば
被爆地・長崎は9日、65回目の「原爆の日」を迎えた。爆心地に近い長崎市松山町の平和公園では、長崎原爆犠牲者を慰霊する平和祈念式典が開かれ、 被爆者や遺族ら約6000人が参列。原爆投下時刻の午前11時2分、全員で1分間黙とうし、鎮魂と平和への思いを新たにした。「長崎平和宣言」で田上富 久・長崎市長は、今年5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議で核軍縮交渉などの期限設定を核保有国が退けたことを強く批判。「核保有国の指導者の皆さん、『核兵器のない世界』への努力を踏みにじらないでください」と世界に訴えた。
田上市長は「核保有国が核軍縮に誠実に取り組まなければ、それに反発して、新たな核保有国が現れて、世界は核拡散の危機に直面する」と指摘。5日に長崎を初訪問した潘基文(バンキムン)・国連事務総長が国連加盟国に呼びかける「核兵器禁止条約」への強い支持を表明し、核兵器廃絶への決意をアピールした。
また、被爆65年にして存在が明確になった「核密約」に触れ、「非核三原則を形骸(けいがい)化してきた」として過去の政府の対応に強い不信感を表明。NPT未加盟の核保有国インドとの原子力協定交渉も「NPT体制を空洞化させ、容認できない」と批判した。
その上で日本政府に▽非核三原則法制化への着手▽核の傘に頼らない安全保障を実現するための「北東アジア非核兵器地帯」構想の提案--を求め、被爆国として国際社会で独自のリーダーシップを発揮するよう促した。(「長崎原爆の日:65年の祈り 核廃絶の努力、踏みにじらないで 市長、保有国に訴え」)
しかし、核兵器を保持した方が世界が平和になるか否かという問題は、純粋に安全保障、国際政治学の問題である。実際、核がきちんとした先進国20カ国ほどに広がった方が世界はより平和になるという議論は存在する(Kenneth Waltz, “The Spread of Nuclear Weapons: More May Better,” )。もちろん、この議論展開が国際関係論的に誤っているとして反論を試みている例もまたたくさんあるので、主張の妥当性についてはわからないが、少なくとも「核の存在」と「平和」とは両立する可能性は十分あるし、それが両立しないというのなら個別に論証が必要である。
ゆえに、核廃絶論者と核保有論者は、その「平和」という目的においては一致しており、ただその手段についての考えが異なるだけである。ゆえに、「核廃絶/核保有」の主張が先行して固定されてしまうことは原理的におかしく、目的(平和)に対して合理的な手段が自分の考えていたものと別であるとの主張が提示された場合には、ひとまずその妥当性について考えるはずである。ところが、実際に起きている反核運動は、不思議なことに核廃絶という目標があらかじめ決まってしまっており、「核保有をした方が世界は平和になる」という主張はその論拠と無関係に反倫理的であるかのごとき非難を受ける。
もちろん、平和という目的(≒核兵器が使用されること)とは独立に核保有自体が反倫理的であるという主張も、考えづらいが一応成立しうる。だがその場合、「核保有した方が世界は平和になる」という主張に対してはそもそも反論する必要は生じず、「なるほど、その通りかもしれない。しかし、仮に世界が平和になるとしても、それでもなお核は保有してはいけない」という論理展開にならなければいけない。だが、このような論理展開はみたことがない。
核廃絶論が妥当性を失ってしまうのは、結局「なぜ自分たちの方法(核廃絶)がより平和につながるのか」という最も論証すべき問題を自明視して信じ切ってしまい、その論証を欠いてしまっているからである。北朝鮮が核による瀬戸際外交を現段階で成功させているのを見ればわかるように、状況によっては核に一定の抑止力ないし外交ツールとして有利にするだけの価値が存在するのは事実である。核保有の問題は純粋に安全保障的観点において核保有が有効なツールか否かという点から吟味されるべき問題であり、核廃絶にこだわっているのは合理的でない。
なお、誤解されないように付記しておくと、私自身は日本の現状況における核保有は、費用対効果の点からも安全保障への有効性の点からも支持しえないものである。ただ、アメリカの核が日本を通過するのについては、日本が不利益になる(日本を巻き込む戦争が起きやすくなる)にもかかわらずアメリカの利益になるので持ち込まれる状況(日米同盟が破綻した状況)においては受け入れがたいが、日本の安全保障に有効である(平和に寄与する)状況ではそれを批判する必要性はそこまでない。そして、日米同盟が破綻していたらアメリカによる核持ち込みは行えない以上、結局核持ち込みは問題ではない。現在の倫理性の判定基準が「平和に寄与するか否か」である以上、平和に対する必要性があれば核の持ち込みもまた認められるのである。
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