死刑存廃問題
死刑の公開か何かのニュースで死刑制度の存廃が話題となったので、それに絡めて。
死刑廃止論といってもいろいろあるが、その論拠としては大きく分けて以下の二通りになるだろう。
1 凶悪な犯罪者を殺すこと自体に反対するもの
2 凶悪な犯罪者を殺すこと自体には反対しないが、その副産物的な部分に問題があるとするもの
1の論拠としては「国家が殺人を禁じていながら、国家自身が殺人を犯すのは矛盾している」というタイプの批判がメインだといえよう。
2の論拠としては「冤罪の場合に取り返しがつかない」というタイプの批判がメインだといえよう。
この二者を混同すると、批判の矛先がずれるので、これはきちんと峻別しておく必要がある。その上で、これらの批判の妥当性を順に見ていこう。
まず「国家が殺人を禁じていながら、国家自身が殺人を犯すのは矛盾している」という批判だが、これは死刑に限らずあらゆる刑罰について当てはまるので、刑罰全否定論でない限り有効でない批判である。「国家は窃盗を禁じていながら、国家自身が罰金刑という窃盗を行うのは矛盾している」と主張しないならば、死刑にのみそれをいうのは首尾一貫していない姿勢である。
次に冤罪の問題だが、これについてはさらに以下のように二部することが出来る。
A たとえわずかであっても、無実の人が死ぬ可能性がある限り、そうした制度は支持しえない、というもの
B 無実の人が死ぬ可能性が存在すること自体は許容できるが、費用対効果を考えたときに、死刑制度の維持は割に合わない、というもの
Aについては、自動車制度が存在する限り不可避的に交通事故が発生することから、自動車制度の廃止が帰結するという不合理な事態に陥るので、妥当性を欠く主張だとわかる。
Bについては、実際に「死刑制度で無実の人が死ぬ可能性の大きさ」と「死刑制度のもたらす効果」を比較するしかない。ただしここで注意すべきなのは、司法制度の証拠認定のハードルの高さの度合いを変更することで、無実の人に有罪判決を下す可能性は相当程度いじることができるという点である。現在の司法制度では証拠認定の度合いは死刑と他の刑罰で一緒だが、そのハードルを上げて、死刑にする場合にはさらに多くの証拠や、確認のための手続のより一層の拡充、再審制度のさらなる完備などをすることは出来るし、すべきことである。なので、死刑廃止を2-Bの論拠から訴えるためには、無実の人の死刑が発生する可能性が、上記のような措置をすべてとってもなお無視しえない大きさであることを示さなければならない。だがそれを示せている死刑廃止論を私はまだお目にかかったことがない。
しかし、メリットが全く存在しないのだとしたら、わずかでもリスクのある制度を維持するのは不合理である。なので、以下では死刑制度がどのような役割を果たしているのかを考える。
よく死刑のメリットとして取り上げられるのは犯罪抑止力である。抑止力の有無やその大きさについては喧々諤々の議論が存在する。だが、「死刑を廃止したら犯罪が増えた・減った」みたいなデータは、そもそも抑止力の成果の有無が現れるのは、死刑のない社会で育った子供が社会の主要構成員となる50~100年後であることを考えても、ほとんど意味のない議論である。
また、被害者による復讐心を根拠に挙げることもある。しかし、(間接的には関わることを後述するが)直接的には復讐心があることとその達成が正当化されることとは別だし、逆に被害者(の遺族?)が犯人への復讐を望まないなら刑罰が不要になるというたぐいのものでもあるまい。
抑止や応報といった概念は、個別の犯罪行為においてとらえられるべきものではなく、もっと大きな、社会的観点から捉えられるべきものである。
我々は法秩序によって安全性を担保された社会に住んでいる。即ち我々は、法体系がすべての人に遵守され、誰もが法のルールにのっとって快適な生活を送る理想的な法秩序を期待・予想し、また同時に法秩序に信頼している。ゆえに、犯罪というものはただ犯罪被害者のみが攻撃されたものではなく、同時に社会的な法秩序全体への攻撃、「法秩序が守られた社会像への期待・信頼」への攻撃になっているのである。そのため、法秩序を今後も維持していくならば、「法体系の信頼回復」が必要となる。その役割を担うものが刑罰なのである。
「命があるなら・・・」という表現が世界各地にあるように、命の有無は大きな隔絶を持っている。死刑を放棄するということは、法体系の信頼回復に際して、いかなる攻撃についても「生の剥奪」という究極的手法を用いることを予め放棄することを意味している。いくつかの国家で「政治犯を除き死刑廃止」といった措置が取られているが、それもこのことの表れである。
一般の人々にとって、「死んでもいい/むしろ死にたかった」的な発想は理解しがたいが、「死なないで済むなら」的な発想は理解しやすい。ゆえに、「死の有無」というのは、我々が「他の人は法秩序を守るような行動をとるだろうか」を考える際に重要になってくる。人は犯罪を犯すときに刑罰のことなど考えない、というのは事実だが、しかし今の冷静な私は、「他の人も私と同様な感覚を持っているだろう」「(今の冷静な)私は死ぬことを恐れる」ということを考えることが出来、ゆえに他の人も法秩序を守ってくれるだろうと期待することが出来る。逆にそうした期待を取り付けられないならば、「守られることを期待されていない法」は空文化し、法秩序は崩壊する。
(なお、このことは精神障害者への取り扱いにも表れている。精神障害者は一般の人々とは「異なる思考をする人」と見られているため、自分と同じような人々への期待によってつながっている「刑罰→法の遵守」という枠に乗らないのである。もちろんこの問題についてはいろいろと議論も起きているが、精神障害者への差異が発生するのにはこうした背景もあると考えられる)
なお、教育刑的な刑罰の捉え方の人は「死んでは意味がない」と死刑に反対することが多いが、逆に牢屋に閉じ込められていたり労働をしたりすることでなぜに更生が進むのかは大いに疑問である。逆に、「自らの死に直面させられること」が自らの罪の自覚や反省へと導くことは大いにあり得ることであろう。
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コメント
いつも話題の死刑存廃問題について、明快な解説を述べられていて、自分の中のこの問題が整理されたように思えます。
投稿: | 2011年2月12日 (土) 02時40分