生物多様性について
今年はどうやら生物多様性の年だとかなんかで、本やニュースでもやたら生物多様性が特集されているらしい。だが、「生物多様性を守れ」とばかりに動いているアピールには正直疑問を禁じ得ない点もある。先日のNHKの朝のニュースで、「外来種のザリガニが増えることで、昔から地元にいたトンボが激減している」ということを「生物多様性の危機」として報じていたのだが、いろいろと違和感を持った。
トンボとか他にはホタルとかを守ろうとするこういう試みはいいと思うのだが、単刀直入に言ってしまえば「そうした運動はトンボとかホタルを守るためのものであって、別に生物多様性云々は関係ないんじゃないのか」ということである。
まず第一に、「別に多様だからいいわけではないだろう」ということである。生物多様性の保護を訴える人々にとっては、多様性の価値はあまりに自明なのでそれを疑うことも不道徳だとばかりに見る人もいるかもしれないが、しかし多様であるから価値があることは自明ではないし、しかも多様であることを望まない状況さえ存在する。典型的な例としては病原菌等が挙げられる。天然痘菌は(一部研究施設に研究用として保存してあるのを除き)実質的に絶滅させられたし、インフルエンザウイルスの新種が次々増えることを喜ぶとは到底思えない。ゆえに、多様であること自体に価値があるとは言えないのである。
もちろん、連作障害を防ぐための二毛作のように、多様である方がより望ましい帰結を生む状況も十分考えられる。しかしその場合にしても、多様性が望ましいと言えるのはあらかじめ仮定として「作物がたくさんとれることが望ましい」という価値判断が存在するからであり、その目的に対して多様性が合理的であった、ということに過ぎない。
そして第二に「それが必ずしも多様性を帰結させるとは限らないんじゃないか」という疑問がある。確かにトンボは減ったのだろう。しかしその代わりザリガニはその地域で増えたのであり、外来、すなわちこれまでにいなかったような新しい環境にそのザリガニは連れ込まれたのだから、そのザリガニはその地域特有の変化を遂げていくことが十分考えられる。すなわち進化である。他方のトンボも、生き残るのがこれまでと比べて相当厳しい環境に変化したとはいえ、そうした環境にうまく適応するものも現れるかもしれない。そうすれば、トンボの方にもまた新しい種が生まれることになる。なので、「ザリガニの増加とトンボの現象」は必ずしも「多様性の低減」を意味しないし、むしろその逆である可能性すらあるのである。
では、そもそも「生物多様性を守るべき」という人は何を根拠に「生物多様性を守るべき」と主張しているのだろうか。WWFジャパンの生物多様性特集のページを見てみると、以下のように書かれている。
■生態系サービス
そもそも、この地球上のあらゆる環境は、あらゆる自然によって、形作られたもの。
その中には、動物、植物、土、といった、多くの要素が含まれており、普段食べている魚や貝、紙や建材などになる木材、生きる上で欠かせない清浄な水や大気など、さまざまな資源がここから生み出されています。
森や海の環境は、地球の気温や気候を安定させる、大きな役割も果たしており、時には災害の被害を小さくする、防波堤の役割も果たしてくれます。
■健康と医療への恩恵
保健や医療に関しても、生物多様性が果たしている役割があります。
人類の医療を支える医薬品の成分には、5万種から7万種もの植物からもたらされた物質が貢献しています。
また、世界規模地球環境概況第4版(Global Environment Outlook4)によれば、海の生物から抽出される成分で作られた抗がん剤は、年間最大10億ドルの利益を生み出すほどに利用されているほか、世界の薬草の取引も、2001年の1年で430億ドルに達したされています。
そして、多様な自然環境の中には、まだ発見されていないさまざまな物質も、数多く存在していると考えられています。
これらが発見されれば、現代の医療が解決できていない、さまざまな難病が、いずれ治療できるようになるかもしれません。
要するに、「多様性・生態系は人類の役に立つから守ろう」ということだ。これには同意するが、しかし裏を返せば「人類に役立たない多様性・生態系は守る必要がない」ということにもこの論拠を支持する人は同意してくれるはずだろう。先程の例で言えば病原菌は役立たない(むしろ迷惑)から絶滅させられるし多様性が喜ばれないのと同じである。
■生物多様性の価値
これらのように、生物の多様性が、私たちにもたらしてくれている恩恵は、実にさまざまです。
しかし、生物多様性の重要性を考える時に、忘れてはいけないことがあります。
それは、生物多様性というものが、地球上のあらゆる生命が、「人間のためだけに存在しているわけではない」ということです。
私たちはとかく、何が、いくら分の経済的価値があるのか、といった「ヒトの視点」で、物事の意味を語りがちです。
しかし、生物多様性という一つの大きな世界を考えるとき、その視点だけで意味の軽重を問うべきではありません。
生物多様性条約が作られた時、その前文の原案には、次のような文章がありました。
「人類が他の生物と共に地球を分かち合っていることを認め、それらの生物が人類に対する利益とは関係なく存在していることを受け入れる」
この文章は、最終的に削除されてしまいましたが、これは私たち人類が、地球上の生命の一員として、決して忘れてはいけない一条であるといえます。
「地球上のあらゆる生命が、「人間のためだけに存在しているわけではない」」は真だが、「どの生命を人間が守るか」という問いは人間における価値判断を前提としなければ答えられない。「存在する自然や生命には価値がある」という発想は、環境倫理ではしばしば見かけるタイプのロジックだが、これは「それが存在すること」と「それが望ましいこと」とを取り違える自然主義の誤謬を犯している。我々人間の美意識の一つに「自然を尊ぶ」というものが存在しているのは事実だが、仮にそこから自然保護を導くにしても、論拠は「人間の美意識の一つ」という人間中心的な発想にならざるを得ない。そして我々の美意識は普遍的ではなく、変遷するものである以上、「どこまで・どの程度自然を守るべきか」という問いの答えは、我々の美意識によって変わってくる。
この点を認識することで、「生物多様性」「自然自体の価値」といったアピールが覆い隠しているものが見えてくる。本来的には「ホタルがいるのはいいよね」「こうした自然があるのって美しいよね」という我々の共感においてそうした運動は支えられるべきものであるし、またホタルを守りたい人は、他の人々にそうした共感を得てもらうように努力する必要がある。ところが、「生物多様性」などといった学術的な用語を持ちだすことで、さもそれ自体の価値もまた学術的に保証されているかのように仮構し、その結果、本来ならば果たすべき「共感を広げるための努力」という義務から逃げてしまっているのである。
<おまけ:生態系の維持について>
もう一つ、「生態系を守れ」というのも、最初に取り上げたトンボの保護の話などで出てきそうな論拠である。だが、これもその意味を考えると妥当性は疑わしくなる。トンボの例を用いれば、「ザリガニがトンボを駆逐し尽くした状況もまた一つの生態系になってしまう」という点を指摘するだけで、「生態系」という論拠は無力化する。「可能な生態系」は複数存在するので、どの生態系が望ましいかは序列化できない。「現存する生態系が望ましい」という保守的発想は、すでに書いた自然主義の誤謬になってしまう。結局「他でもない、今あるこの生態系がなぜ望ましいのか」には別途議論が必要となる。
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