「想定外」とリスクの考え方
今回の福島第一原発の問題について、津波被害が「想定外」だの、それは十分予想されていただのといった話が起きている。例えば、共産党が2007年の段階で、チリ地震級の津波が起きた場合には冷却機能が失われると指摘していたこと(「福島原発10基の耐震安全性の総点検等を求める申し入れ」) が明らかにされている。だが、こうした議論においては、そもそも「想定されている」「想定外」というのがどのような意味なのかがかなり錯綜している気がするので、ここで整理しておこう。
まず、「科学的予測としては、起きえないことになっている」という意味での「想定外」がありうる。だが、この意味で今回の津波を「想定外」というのは間違っている。なぜなら、科学的予測としては「1000年に一度程度の頻度で起きる」ということを予測しているからである。「まれであること」は「起きない」ことと違う。偏りのないコインを10回投げてすべて表になる確率は数学によるとおよそ1000分の1でまれな出来事だが、これは「起こり得ない」ことではない。そして、仮に今コイントスをして奇跡的に10回連続で表が出たとしても、それは「だから数学的な確率論は誤っていたのだ」とはならない。あくまでも「まれなことが起きた」というだけである。同様に、今たまたま「1000年に一度の地震」が起きたからと言って、それは直ちに地震の予測が誤っていたことを意味しない(もちろん「1000年に一度」が過小予測である可能性は十分あるが、それは今回の地震によって言えることではなく、数多くのデータや科学的論証を経て言えることである)。
なので、科学はあくまでも頻度を教えてくれるだけで、それが「考慮すべきリスク」なのか「考慮するに足らないリスク」なのかは、我々の価値判断の側に属する問題である。では、福島第一原発において今回の規模の津波を「想定外」として、その対策をしていなかったことはどう見るべきなのであろうか。
しかし、まず認識すべきは「存在しうるあらゆるリスクに備えるわけにはいかない」という事実である。リスクという意味では、例えばここに隕石が落ちてくる可能性だって確実に存在する。そうした事態にまで備えが可能な限り備えるということを行っていたら、資源や金がいくらあっても足りなくなる。なので結局、「リスクの発生確率」と「発生した場合の被害の大きさ」と「リスクに備えるためにかかるコスト」とを考慮して、割にあうもののみを対策し、そうでないリスクは諦める、言いかえれば「起きた場合にはそれを甘受する」という選択をとるしかない。
人間はえてして「あのときこうしていたら・・・」と思ってしまう生き物である。例えば次のようなギャンブルを持ちかけられたとしよう。「今からコインを3回連続で投げて、すべて表だったら1000円払ってもらう。しかしそれ以外なら逆に1000円あげよう。」これは明らかにこのギャンブルに応じた方が得である(リスクを嫌う人が応じなかったとしても、それ自体は合理的である。しかしここでは純粋に期待値で確率計算した場合を取り上げる)。だが、実際にギャンブルに応じて、偶然にも3回連続で表が出て1000円失ったとしたら、あなたは「こんなギャンブルに応じなきゃよかった」と後悔するかもしれない。だが、もし期待値で物事を判断するという姿勢をとっているのだとしたら、ギャンブルに応じたこと自体は判断の誤りではない。あくまでも「運がなかった」だけであり、その帰結を受け入れるしかない。
一般のリスク判断もこれと同じであり、「これ以上は対策しない」と決めたということは、その予想レベルを超えるリスクが発生したときには潔く諦めるということを同時に含意しているのであり、少なくともたまたまそのリスクが発生してしまった後で、後出しジャンケンのように「あのとききちんと対策しなかったのが・・・」と批判するのは的外れである。
もちろん、確率の予想や被害の大きさの予想などを踏まえて、「地震が発生する前から」仮に国民がより大きなコストを負ってでも対策をすべきだったという結論を導くことは十分考えられるし、それは何の問題もない議論である。しかし、起きてしまった後で、「ほら、起きたじゃないか」と、後出しで対策不足を批判するのは、そもそもリスク管理というものをよくわかっていない証左であろう。
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