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核兵器を脱神秘化する

核をめぐる議論では、一方の極には「一定水準の国は核を持っていた方が世界は安定する」という核武装論、もう一方の極には「核兵器などない方が平和」という核廃絶論があり、その間のバランスをとるようなところに多くの議論は位置している。そして、これらの双方に挑戦するかのように、北朝鮮などのいくつかの国家は、既存の制度を破って核保有をすることをもくろみ、または実行している。
これらの議論の共通の前提にあるのは「核兵器は極めて恐ろしいものだ」という「畏怖の念」である。これがあるために、核兵器は抑止として機能するし、また同時に廃絶されるべきものだとされる。いくつかの独裁的な国家や軍事政権が核保有に熱心なのも、それが脅しのカードとして極めて有効なものだからである。
しかし、一歩引いて考えてみよう。本当に核兵器は恐ろしく思うべき対象なのだろうか。いやもちろん実際に使用された場合に甚大な被害が出るというのは事実であるが、問題は「どういうときに使用されうるのか」ということである。つまり、核兵器が軍事的な戦略としてどういうときに有効に使用しうるか、ということである。

まず、通常の対等に近い国家間戦争において、核兵器は有効に使用しえない。核兵器が使用されるのは「相手国に効果的に勝利するため」ではなく「道連れ戦略」つまり「自分だけが一方的に負けることを防ぐ」という消極的な状況においてしか使用されえない。冷戦期の米ソのにらみ合いは、まさに脅しのカードと相互に全滅し合う破滅戦略を吊り下げたものであった。唯一例外的に使用されたのは第二次大戦最後の日本への原爆投下だが、あれはそもそも「原爆が存在しなかった世界」から「原爆がある世界」に初めて変わった瞬間であり、ゆえに誰も「原爆とはどういうものか」を知らないので原爆がカードとして機能しようがなく、そのアピールと戦後の対ソ戦略を見越した政治的意図によって動かされたというのが「軍事戦略として」見た場合の原爆投下の合理性であり、広島と長崎の壊滅的破壊それ自体が目的ならば原爆という手段は恐らく採用されなかったであろう。
逆に相手国に対し自分が圧倒的に強い場合、例えばアメリカによるアフガニスタンやイラクの攻撃のような状況、においてはどうであろうか。この場合、そもそも核を使うまでもなく通常の手法で勝利できるか、核を落としても大して効率的でない場合とに二分されるであろう。端に都市を破壊するなら絨毯爆撃で十分であり、その後の地上戦の展開や戦争勝利後の統治のことまで見越せば核による汚染は全く望ましくない。またゲリラなどの非国家組織を相手にしている場合は、そもそも核によって相手に攻撃を仕掛けることさえままならない。
では、北朝鮮のような独裁国家、軍事政権国家がアメリカのような強大な国を相手に核を使用する場合はありうるだろうか。指揮系統の混乱や末端の暴走があれば話は別だが、合理的な戦略としてはこれもありえない。そうした国家にとっての最優先の目的は自らの政権の保存であり、他国を核攻撃することはむしろ国際的な報復攻撃を誘発するだけであり全く望ましいものではない。そうした国々が核を保有したがるのはあくまでもカードとしてのそれであり、核攻撃を望んでいるからではない。

では、ここまで有効に使用できない兵器であるにもかかわらず、アメリカ等の大国は核の削減になかなか踏み切れないのであろうか。それは、逆説的だが核兵器が「畏怖されている」がゆえである。畏怖されるほどに強大な悪魔を大量に保有しているということは、それ自体として一つの国家の強大さのステータスシンボルとして機能しているのであり、そこまで強力な兵器でありながら自らそれを放棄してしまうということは、そこから生まれる倫理的評価の向上以上に「弱体化」としてのステータスの低下による損失の方が大きいという事態を発生させるのである。核兵器はもはやシンボルでしかないが、それゆえに核兵器はなかなか捨てされないのである。
結局、核兵器は実効的には機能していないにもかかわらず、シンボリックな価値が強大であるがゆえに、独裁国家はそれを保有しようとし、大国はそれをなかなか廃絶出来ない。そしてこの「シンボリックな価値」を裏側から支えているのが、皮肉にも反核運動が強調する「核の恐ろしさ」なのである。反核運動の成功により、我々の核兵器に対する畏怖の念は極めて強大なものになった。しかし、核への畏怖の念が強まれば強まるほど、核を保有するインセンティブはますます増大してしまうのである。それは北朝鮮のような国家による核保有、核拡散をますます推進し、大国の核削減をますます困難にする。
核兵器が機能としてはシンボリックな価値しか有していないとすれば、核拡散を防ぎ、核削減を推進するためには、そのシンボリックな価値を低下させるのが最適解である。それはすなわち核兵器を畏怖しない、要するに核兵器を「ただの大きな爆弾」にまで格下げするということである。北朝鮮としても、ただの大きな爆弾を必死に開発することもないだろうし、ただの大きな爆弾なら諸大国も軍縮のルートに乗って適宜減らしていくことが可能である。核廃絶は、逆説的だが核を脱神秘化し、その畏怖の念を剥ぎ取ることによってこそ、最も達成されるであろう。

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