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ヒュームの「帰納法への懐疑論」を乗り越える

ヒュームの「帰納法への懐疑論」は有名である。これは、帰納的推測の妥当性を問うものである。多くの人は帰納的推測の妥当性を問われて「以前行ったあの帰納的推測は正しかったし、別のとき行ったあの帰納的推測も正しかったし・・・」と挙げていくだろう。しかし、これは「以前行われた帰納的推測が正しかったから、次の帰納的推測も正しいだろう」という、それ自体が帰納的推測を行ってしまっているので論点先取りになってしまい、帰納的推測の妥当性を示すことにはならない。これが懐疑論の要点である。この「帰納的推測の妥当性」というのは、「世界は、似たようなことをすれば似たようなことが起きるようになっている」という「斉一性原理の擁護」とも言える。

ここで注意すべきは、問題となっているのはあくまでも「推測の妥当性」なので、「実際にその推測が当たるかどうか」とは独立の問題だということである。例えば「昨日まで太陽が昇っていたのだから、明日も太陽が昇るだろう」という帰納的推測について考えてみよう。ここで、もし特殊なミサイルを誰かが発射し、それによって太陽を破壊することに成功したとしたら、明日は太陽が昇らないこととなる。つまりこの推測は外れたことになる。しかし、にもかかわらずこの推測が「妥当でなかった」わけではない。
別の例を出そう。もし私がある教室に連れて行かれ「この部屋にいる人数を数えろ」と言われたとする。そこで私は1から100まで書かれたカードを壺の中に入れ、1枚引いたら63と出てきたので「この部屋には63人の人がいる」と推測したとしよう。そして実際にこの部屋には63人の人がいたとしよう。この場合、私の推測は「当たった」のは間違いない。にもかかわらず、この推測は明らかに「妥当性のある推測」ではない。
要するに、推測の「妥当性」というのは、実際にその推測が当たったかによるのではなく、その推測が「どういう論拠を用いたか」によるのである。帰納的推測というのは「他の類似した事象において、皆このような性質・結果を示していた」という手持ちのデータを元に「この類似した事象もまた、同様の性質・結果を示すだろう」と述べるものである。

さて、ある事象が「推測される」ということは、その事象が厳密にはどうなのかを(少なくとも推測を行っている人は)まだ知識として獲得していないということである。上記の議論と合わせると、推測は「今ある知識だけで、まだ獲得していない知識に関する命題を述べること」となる。そして、推測の妥当性は論拠によるので、「今ある知識」と「述べられた命題」がどのような関係にあれば、それを「妥当な推測」と呼びうるか、という問題になる。
しかし、「今ある知識」と「述べられた命題」とが演繹関係にない以上、我々が推測において用いうるのは「今ある知識との整合性」でしかなく、推測の妥当性もその観点からしか評価しえない。しかしこれは「未知の命題」の妥当性を「既知の命題」によって判定しているのだから、「未知の命題」と「既知の命題」に一定の関係性があると述べていることと等価である。これは要するに「これまでのこと」と「これからのこと」はつながりをもっている、ということが「推測の妥当性」という問いを立てた段階での前提とされているのである。これは要するに、斉一性原理が広い形で擁護されている、ということでもある。

もちろん帰納的推測は成り立たないこともある。例えば、「私がラーメンを食べた日が3回あったが、すべてその1週間後には東京で雨が降った。よって次に私がラーメンを食べても同じことが起きるに違いない」というのは帰納的推測だが、妥当ではない。しかしこれが妥当ではないと言えるのは、雨が降るために必要な条件(これもまた帰納的推測!)を調べ尽くしており、そこにラーメンの影響は入り得ないことを知っているからである。つまり帰納的推測が否定されるのは別の帰納的推測によってであり、帰納的推測自体をひっくり返すことは「推測の妥当性」自体を問いに持ち出す限り、出来ないのである

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コメント

一般に推論(推測は哲学的に十分定義された語ではないです)が妥当であるためには、次に二つを充足する必要があります。
1.前提がすべて真である
2.前提から帰結に至る推論規則が妥当である。
2の推論規則は演繹的な推論をするときにも用いるので、もしこれを批判するならば、演繹的推論も疑わしいことになります。ヒュームは2を批判しているわけではないので、批判点は1です。
この場合問われるのは、「帰納的命題はどうしたら1を確保できるか」になります。答えは、確保できない、です。その理由は、経験的命題は恒常的連関が生み出すドクサであり、演繹的命題が備えるような論理的な妥当性を持たないからです。
ここでの私の論点は、
たしかに、「推測の「妥当性」というのは、実際にその推測が当たったかによるのではなく、その推測が「どういう論拠を用いたか」による」のですが、ヒュームが問題にしているのは、帰納的推論に表れる(経験的)命題の源泉であって、論拠ではないという点です。既に述べたように、「今ある知識」と「述べられた命題」がどのような関係にあるべきかについての規則(推論規則)は、演繹的命題においても用いられます。したがって、論拠が問題点になることはありえません。

投稿: | 2012年7月13日 (金) 12時05分

>次の帰納的推測も正しいだろう」という、それ自体が
>帰納的推測を行ってしまっているので論点先取りになってしまい、

論点先取とは、証明すべき命題が暗黙または明示的に
前提の1つとして使われる誤謬のこと。

個々の帰納法の正しさを帰納することと、
個々の帰納法の正しさを帰納することに対し、帰納することとは、
別のレベルの問題。
それは、循環論法ではなく、無限後退だろう。

投稿: | 2012年10月27日 (土) 09時59分

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