« 小澤の不等式の量子推定理論における意味及び若干の批判的検討 | トップページ | ネット選挙解禁の可能性~90年代選挙制度改革の歴史との比較 »

ロックの社会契約論・所有権論はリバタリアンを支持するのか

リバタリアニズムは所有権や自由を強く尊重する思想だが、その祖あるいは強い擁護者として、ロックの所有権論が持ちだされることは多い。また、リバタリアンに与しないまでも、授業でロックの思想を簡単に習った人は、彼の社会契約論は個人の自由を強く擁護するものだという印象を持っているであろう。
しかし、ロックは本当にはどのような議論を展開したのであろうか。

有名なロックの議論は、『統治二論』の後篇「政治的統治について」で展開されている。しかしここで注意しなければならないのは、この本はフィルマーの王権神授説への反論として書かれたものであり、この前篇「統治について」では、なぜキリスト教の教えからは、王がすべての権力を受け継いでいる、という結論が導かれないのか、が徹底して論じられている、ということである。彼の有名な自然状態や社会契約の議論は、この流れにおいて論じられているということは意識しなければならない。
フィルマーの議論は「アダムは神から全権力を与えられており、その権力は長男から長男へと引き継がれていく。そして、その継承者が国王なので、王が全権力を持つ」という論理展開をしている。そこで、ロックはこの議論に対し、さまざまな問題を指摘しているが、そのうちの一つとして「誰が正当な継承者かを決める規則はないし、決めることは出来ない」 という点を挙げている。
そして、この議論に続けてロックは、自然状態についての分析を行う。彼は、自然状態は完全に自由で平等であると論ずる。そしてその論拠として以下のように述べる。

なぜなら、同じ種、同じ等級に属する被造物が、すべて生まれながら差別なく同じ自然の便益を享受し、同じ能力を行使すること以上に明白なことはないのだから、それらすべての主であり支配者である神が、その意志の明確な宣言によってある者を他の者の上に置き、その者に、明示的な任命によって疑う余地のない支配権と主権とを与えるのでない限り、すべての者が従属や服従の関係をもたず、相互に平等であるべきだということはあきらかであるからである。 (ロック『統治二論』岩波書店p296)

ここでは、自由と平等の論拠として「神の被造物であること」が執拗に説かれている。先述のフィルマー批判と組み合わせると、要するにここで対比されているのは「神は唯一人の人(国王)にすべての権利を与えた/神は全人類に平等に権利を与えた」という構造の違いなのである。
さて、この状況で認められている「自由」とはどのようなものなのであろうか。ロックは以下のように論じている。

この状態において、人は、自分の身体と自分の所有物とを処理する何の制約を受けない自由をもっているにしても、彼は、自分自身を、また、自分が所有するいかなる被造物をも、単にその保全ということが要求する以上のより高貴な用途がある場合を除いて[ほしいままに]破壊する自由を持たない(同p298)
  
というのは、人間が、すべて、ただ一人の全能で無限の知恵を備えた造物主の作品であり、主権をもつ唯一の主の僕であって、彼の命により、彼の業のためにこの世に送り込まれた存在である以上、神の所有物であり、神の作品であるその人間は、決して他者の欲するままにではなく、神の欲する限りにおいて存続すべく造られているからである。
(同p298~299 強調引用者)

ロックの「自殺の禁止」は有名だが、その論拠は端的に言えば「神の意志に反する」からなのである。逆にいえば、自由というのはあくまでも「神の意志に沿う限り」においてのみ認められているということである。
労働と所有権もまた、この議論の延長に位置付けられる。彼は

神が世界を全人類に共有物として与えたとき、神は同時に人間に労働することを命じ、また、人間の困窮状態も労働を必要としたのである。 (同p331)

と論じている。つまり「労働による世界の改良」もまた神の意志に含まれているのであり、労働の成果が所有権として認められるのも、この意志の実現を助けるからである。それゆえ、所有権の限界もまた以下のようにして定められる。

彼の正当な所有権の限界を超えたかどうかは、彼の所有権の大きさの如何にあるのではなく、そのなかの何かが無駄に消滅してしまったかどうかにある(同p348)

「無駄な消滅」は先程の「破壊」と同じであり、これは神の意志に反するものである。ゆえに、無駄な消滅を引き起こす領域においては、所有権は認められていないのである。
ここまで来ると、ロックの所有権が、通常言われている「自分の持っているものは絶対/自分の生み出したものは絶対」というようなリバタリアン的な自由論とは大いに異なるものであることが明白になってくる。彼の議論はむしろカントの自由論に近い。カントもまた、自由とは道徳に従うことであると論じており、道徳に従うときのみ人は自由になれるのだという 。ロックがカントと同じ系譜に連なるとすれば、ロックをリバタリアンの友とする考え方には大きな修正が迫られることとなろう。

|

« 小澤の不等式の量子推定理論における意味及び若干の批判的検討 | トップページ | ネット選挙解禁の可能性~90年代選挙制度改革の歴史との比較 »

社会思想」カテゴリの記事

コメント

リバタリアンも「何やってもいい」などと主張してるのではなく、リバタリアン的に正しい行動規範に縛られてるのですから、カントやロックから外れるものではないのでは?

投稿: | 2013年10月25日 (金) 17時30分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ロックの社会契約論・所有権論はリバタリアンを支持するのか:

« 小澤の不等式の量子推定理論における意味及び若干の批判的検討 | トップページ | ネット選挙解禁の可能性~90年代選挙制度改革の歴史との比較 »