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「通俗的」行動経済学のケーススタディの問題

最近「行動経済学」がブームである。クイズ形式で「いかに人間が不合理か」を示せるので通俗書でもよく取り上げられるのだが、そういうところで取り上げられるクイズは、冷静に考えてみると説明がおかしかったり、設定が非常識であったりして、そもそもの目的に失敗していることも多い。いくつか例を取り上げてみてみよう(ちなみに、当のカーネマンの実験は純粋にお金をやり取りする実験で行われており、こういう問題点には陥っていない)

以下は、プロスペクト理論の説明で用いられることの多いクイズである。

<クイズ1>
 600人を死亡させるアジアの疫病の流行の危険があります。この疫病への対策として、以下の2つがありますが、2つの対策の結果は、科学的に次のように予測されています。
 対策A:200人が救われる。
 対策B:3分の1の確率で600人が救われるが、3分の2の確率で誰も救われない。
 このとき、あなたは、どちらの対策を選択するでしょうか。

 <クイズ2>
 600人を死亡させる疫病の流行の危険があります。今度は、この疫病への対策として、以下のCとDがあり、2つの対策の結果は、科学的に次のように予測されています。
 対策C:400人が死亡する。
 対策D:3分の1の確率で全員が死亡せず、3分の2の確率で600人が死亡する。
 このとき、あなたは、どちらの対策を選択するでしょうか。
出典:石川秀樹「ケーススタディーで学ぶミクロ経済学」PHP研究所p315-317

皆さんの答えはいかがでしたか。行動経済学を創りノーベル経済学賞を受賞したカーネマン教授らの実験では、クイズ1では多数(約7割)がAを選び、クイズ2では多数(約8割)がDを選びました。
ところが、実は、全体は600人ですから、対策Aの「200人が救われる」と対策Cの「400人が死亡する」ことは同じことを言っています。同様に、対策Bの「3分の1の確率で600人が救われるが、3分の2の確率で誰も救われない」ということは、裏を返せば、対策Dの「3分の1の確率で全員が死亡せず、3分の2の確率で600人が死亡する」ということと全く同じなのです。つまり、クイズ1とクイズ2は同じで、クイズ1では、生存を強調し利益を得るというプラスのイメージの問題とし、クイズ2では死亡という面を強調し、損失を被るというマイナスのイメージにしただけなのです。
にもかかわらず、多数派は、「救われる」という利益をイメージさせるクイズ1では確実に200人救われるAを選び、「死ぬ」という損失をイメージさせるクイズ2では全員が死ぬかもしれないリスクを冒すDを選んだのです。
この結論から、次の2つのことがわかります。一つは、一般的に人は、同じ問題であっても、質問の仕方(枠組み)を変えると、それが心理的に影響を与えて、意思決定を変えることがあるということです(枠組み効果)。同じ質問への答えが異なるということですから、合理的ではないのです。
また、もう一つは、多くの人は、利益が得られるようなクイズ1の場合、リスクを冒さず確実に助かる人がいるAを選ぶのに対して、損失を被るクイズ2のときには、全員死亡というリスクを冒しても全員が助かるDを選択するということです。つまり、利益を得るときにはリスクを回避し、損失を被るときには積極的にリスクをとることがわかります。だからこそ、利益の確定は即座に行いリスクを回避し、損切りはなかなか行わずリスクを冒して損失の解消に期待するのです。
「ミクロ経済学:なぜ利食いは早く損切りは遅いのか」

聞き方が違うだけで同じ選択肢を与えているにもかかわらず、クイズ1ではAを、クイズ2ではDを多くの人が選好することを「不合理」さの証拠として挙げている。
しかし、落ち着いて考えてみよう。本当にこの二つは「同じ設問」であろうか。BとDが同じであるのは問題ないから、AとCだけ比較しよう。

対策A:200人が救われる。
対策C:400人が死亡する。

問題の設定は疫病対策であった。対策Aは、200人を確実に救済する方法である。例えばあるワクチンを打てば絶対にその疫病にかからないようになるが、残念ながら200人分しかワクチンが用意できないのかもしれない。ここでのポイントは、対策Aでは200人が「確実に」助かる一方、残り400人については「この対策では特に措置をとれない」だけだということである。なので、対策Aの内容を厳密に書くと

200人が確実に救われ、残り400人については放置される(生きるか死ぬかは不明)

ということになる。
では逆に対策Cはというと、こちらは具体的にはやや考えづらいが、例えばすでに400人が潜在的感染者となっており、この400人を殺して焼却処分することにより残り200人への感染を防ごう、という対策がありうる。この方法は、400人の死が確定する一方で、残り200人については確実に安全になったとまでは言えない(潜在的感染者のリストアップに漏れがあるかもしれないし、死体の灰から空気感染するかもしれない)。なので、対策Cの内容を厳密に書くと

400人を確実に死に至らしめ、残り200人は不明である(助かる可能性は高いが)

となる。これが現実に行われる対策まで含めたAとCの内容である。
この二者を比較したら、Aの方がCより望ましいのは明白であり、ゆえにAがBより選好され、CがDより忌避されたとしても、それは人間の不合理性の問題ではなくて、単に常識的な背景を補って合理的に判断したに過ぎない。


次に、係留ヒューリスティクスの例としてよく取り上げられる問題を見てみよう。

ある病気の検査を考えてみよう。たとえば、ガンの検診を想像してほしい。検査を受ける人は1000人とする。病気にかかる確率を0.01とすると、病気にかかっている人は10人、病気にかかっていない人は990人である。
実際にかかっているときに検査で陽性である条件付確率を、「感度」と呼ぶ。感度を0.9と仮定する(中略)
次に、病気にかかっていないときに検査で陰性である条件付確率を「特異度」と呼ぶ。特異度を0.95と仮定する(中略)
さて、検査の結果、あなたは陽性と判定された。そのとき、病気にかかっている事後確率はいくらになるだろうか。
(依田高典『行動経済学』中央公論社p38~39)

計算してみると0.154という値が出てくる。つまり、陽性が出たときに本当に病気である確率は0.154しかないということである。ここまではいいのだが、上記本では答えを述べた後に以下のように続いている。

興味深いのは、大学医学部の授業で必ずベイズの定理を習うにもかかわらず、医師の多くも患者と同じように、検査結果が陽性のときに、その結果を重く受け止め、追加的により高価な精密検査を実施することだ。
これがベイズの定理を忘れた結果なのか、確率や費用は度外視しても患者を病気から救いたいからなのか、その点ははっきりとしないが、その双方とも正しいようだ。
(依田同p41)

陽性が出たときに追加検査をしないのだとしたら、一体何のためにこの検査をしたのだと思っているのだろうか。もともと1%しかかかっているはずのなかった病気に、検査によって15%以上という(検査前と比較すると)極めて高い確率で罹患していることが分かったわけである。追加の検査をするのは当然であろう。
一般に医療の検査では、精度の高い検査ほどお金がかかるので、あまりお金のかからない検査で(偽陽性を大量に含めつつ)患者を抽出し、その陽性の人を対象に精度のよい高価な検査で本当に病気かを確かめる、というステップが踏まれる。陽性になった人は悲観しすぎることはないが、検査前の何事もない状況と比べて病気の確率が段違いに増えているのもまた事実である。医師の観点からすれば追加の高精度検査をするのは当たり前というか、そのための事前検査なのである。

ちなみに、本やHPによっては「感度」や「特異度」の説明もなく単に「精度95%の検査」のように書かれているものもある(例えば「ベイズ・ルール」)。偽陽性の確率(1から特異度を引いたもの)と偽陰性の確率(1から感度を引いたもの)は一般に異なっているのだから、この記述はそもそも検査の説明として不十分すぎることになる。「精度95%」とだけ書いたなら「母集団からランダムサンプリングした人で陽性が出たときに、本当に病気である確率が95%」という可能性さえ否定は出来ない。問題設定が不十分・不適切ならば、「不合理」な答えが出てくるのは当たり前である。

最後に、代表的ヒューリスティクスの例としてよく取り上げられる「リンダ問題」について見てみよう。

(質問)
リンダは31歳、独身で、意見を率直に言い、また非常に聡明です。彼女は哲学を専攻していました。学生時代、彼女は差別や社会正義の問題に深く関心を持ち、反核デモにも参加していました。彼女についてもっともありそうな選択肢をチェックしてください。
(選択肢)
1.リンダは銀行の出納係である。
2.リンダは銀行の出納係であり、フェミニスト運動の活動家である。

回答者はリンダの性格や学生時代の行動についての記述に惑わされて、より詳細な記述をしている選択肢2を選んでしまう。この質問を用いた調査結果から、示されている出来事が詳細であればあるほど人間の感覚が論理的な確率に基く判断から離れていくことが発見された。「シナリオの詳細部分が増えていけば、その確率は減少していくだけなのだが、その代表性とありそうな見込みは増大するのかもしれない」
「確率」(元の質問は「もっともありそうな」という聞き方)の観点からは、「銀行の出納係であり、かつ、フェミニスト運動の活動家」である確率が「銀行の出納係」である確率を超えることはありえない。これがこの問題の味噌である。仮にリンダが選択肢2に合致する場合に選択肢1をチェックしても間違いにはならない。
「リンダ問題」

質問の「もっともありそう」という表現もまた極めて曖昧なものである。条件付確率の問題は「何が条件で、どう抽出したか」を明確化しないと簡単に別の問題になってしまう。この問題は以下の二通りに解釈可能である。

A:地球上の全人間から「独身であり、~」の性質を満たす人間をランダムに一人抽出する。その人はリンダであった。このとき、リンダが1・2の性質を満たす可能性はどちらの方が高いか
B:ある性質をみたす全人間を母集団として、そこから人間をランダムに一人抽出する。その人はリンダであり、「独身であり、~」の性質を満たしていた。このとき、母集団の性質として1・2どちらの可能性が高いか

Aの解釈が通常なされるリンダ問題の解釈であり、答えは「1の可能性の方が高い」である。ところが、Bの解釈も同程度に自然であり、しかもこの解釈では「2の可能性の方が高い」という答えが導かれる。多くの2を選んだ人は、このタイプの解釈を経たのだと考えられる。要するに問題なのは複数の解釈を許す質問の方であって、人間の不合理性ではやはりない。

もちろんきちんとした実験や解釈が行われているものも十分存在するが、それと同じぐらいに「単なる質問の不備」を「人間の不合理性の好例」として紹介されていることは多いように思う。不合理を主張したいならもう少し慎重になるべきであろう。

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